感覚の能動性と離人症 超音波を発射できなくなったイルカは、世界のなまなましさが失われたと泣くだろう。

わたしたちは、感覚は受動的で、運動は能動的だと、漠然と思っている。
確かに、能動的にならなくても、
音は耳に聞こえるし、
光は目に見える。
注意を凝らすかどうかは別にして、
鼓膜を振動させられているし、網膜を刺激されている。

超音波を利用して外界を知覚する動物がある。
コウモリやイルカである。
自分で探索のための超音波を発し、その反射波を受信しているのだから、
能動的と言っていいと思う。

さて、人間の場合に、本当に、感覚の能動性はないのか、
検討してみる。

カクテルパーティ効果として知られる現象がある。
ざわついたパーティの会場にあっても、
自分の関心のある話、言葉、声には敏感に反応して、
情報を拾う現象である。

耳の近くにマイクをつけて、パーティ会場の音を録音したとする。
あとでスピーカーで再生して、パーティの時に聞いたはずの話を確認しようとするが、
雑音の中に紛れて、聞き取れなくなっている。

感覚と知覚の違いについては、
感覚が元の情報そのものに近く、たとえば、マイクで録音した音である。
知覚は、感覚に一段階だけ脳で処理を加えたものと考えられる。
一段階というその中身が問題であるが、とにかく、脳が何かの処理を加えたものが知覚である。

カクテルパーティ効果は、雑音の中から、注目する情報を選択して、ラインマーカーで色を付けた状態と
たとえられる。

ここに、感覚の能動性が関与していると思われる。

人間の耳は二つしかない。
空間の二点からの距離を記述するだけでは、音の発生点を特定することができないはずである。
視覚や経験を加えなければ、片方の耳で感覚できるのは、音の周波数と大きさだけで、
「距離」については特定できない。
運動している音については、ドップラー効果が起こり、体験から、運動の方向については推定できるが、
しかしそれも、運動をベクトルで示すとして、自分向きの成分があるのかどうかを判定できるだけで、
実際の方向については、特定できない。
耳が二つあることの利点として、左右の耳に感じる音の差を脳の中で演算して、
情報を得ることができる。ステレオはそうしているのだし、イヤホンもそのようにして、
左右の広がりを感覚させている。
右から左に動く音については、よく分かる。
しかし上から下に動く音は、どのようにして感じているのか?

左右の耳で音の差を感じるとして、音源の場所について特定できるわけではない。
感覚した音の差を生じるはずの空間の点は、無限にあるはずで、
座標で考えて、左耳を(0,0,0)とし、右耳を(a,0,0)、音源をP(x,y,z)として、
音速は一定として、距離の差がkであるようなPを記述できる。
なにも決められない。
理屈の上からは、音が自分の前にあるのか、後ろにあるのかさえ、あやしいのである。
上と下についてもあやしい。
左右ならば、かろうじて納得できる。

人間の耳は前後上下対称ではないから、
そこから情報の歪みは発生するが、
そのことで音源についてたくさんのことが言えるわけではない。

右耳と左耳にマイクをつけて録音する。
それをイヤホンで再生して聞けば、
世界が再現されるだろうか?
そんなことはないのだ。

骨伝導音という要素もあるが、それは抜きにしておこう。

結局、微妙に頭を運動させて、様子を探る、そのあたりで情報が飛躍的に増えているだろうと思う。
そして経験と推定が大きく補う。これは脳による演算である。

二つの耳しかない人間が、このように複雑微妙に音の世界を感覚しているのは、
何か秘密があるに違いないと研究が進められた。
そして、カクテルパーティ効果をも再現することが試みられた。
微細な音を「拡大」して感覚する方法の研究といってもいいだろう。
その延長上に、特別な録音再生システムが提案もされた。
しかしその研究は、軍事的に大切な研究となってしまい、民生用には制限された。
レーダーよりも有効な探知機の開発である。

人間の感覚は、注意を向けるものを拡大してとらえる力がある。
それが「能動性」と関与しているだろうと思う。
「注意を向ける」ことが、超音波を発射することに対応している。

イルカで言えば、
1.超音波を発信する
2.受信する
3.発信と受信のタイミングなどを脳の中で演算して、位置や速度の情報を割り出す。
こうしたプロセスになっている。

人間は、視覚で言えば、光を発して、その反射光を感覚することはない。
しかし、知覚の場面で、体全体を動かす、頭を動かす、眼球を動かす、
などの能動性は伴っている。
そこで、
1.体動しつつ
2.受信する
3.体動と受信内容を脳内で演算して、対象の位置や速度の情報を割り出す。

つまり、イルカでは、「超音波を発信する」の部分が、
人間では、「自然光を利用して、体動を加える」と置き換わっている。
ここに知覚の能動性が生じている。
脳内の演算回路はイルカと人間で特に変わらないはずである。

たとえば、生まれたばかりの猫の、頭部、眼球を固定したままで育てる。
すると正常な視覚は発達しない。
また、正常に発達した視覚機能を持つ猫について、
頭部、眼球を麻酔して固定してしまえば、
正常知覚はできなくなってしまう。

知覚の能動性を奪われるからである。

運動や思考の能動性を奪われる状態は、よく知られている。
では、知覚の能動性を失う病気があるだろうか?
そのときはどんな症状になるだろうか?

このようにして、離人症症状が発生するのだとわたしは考えている。

本当の景色と
窓ガラスを通してみた景色と、
絵葉書の景色と、
違いが気になる人とならない人がいるのだろう。

あるいは違いが気になるという妄想なのか。

超音波を発射できなくなったイルカは、
世界のなまなましさが失われたと泣くだろう。

※ 以上は「自発参照音」および「ホロフォニクス」、あるいは「耳音響放射」(Otoacoustic emissions : OAEs)の話です。
たとえば、以下のサイト。
http://www.23net.tv/xfsection+article.articleid+70.htm
http://www.ntticc.or.jp/pub/ic_mag/ic000/frontier/frontier_1_j.html
http://blogs.yahoo.co.jp/sizukana_kohan2006/10054523.html

※ リファレンス・トーン
ホロフォニクスの開発者ヒューズ・ズッカレリが主張する「自発参照音」.人間は単に音を一方的に伝達関数的に受容するのではなく,身体からある種の周波が空間に自発され,それが音源との間に干渉を生じさせる結果,私たちは音の空間位相を確認できるとするもの.

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近縁のこととして、人間の感覚情報は、
脳内で、情動・記憶系と、現実対処系の二つの経路に別れるはずで、
最終的にその二つが統合されて、人間の感覚経験は完結するとの説がある。
(「脳のなかの幽霊、ふたたび 」V.S.ラマチャンドラン著、角川書店に略述。)

たとえば、情動・記憶系が機能障害になり、現実対処系は機能保持されている場合、
「これが自分の机であることは分かる、しかし、愛着も感じられないし、机の机らしさがない」などと感想を述べることになる。

たとえば、「この人はわたしの母親だ、しかし、私の母親らしさがちっともない」と語る。
さらに、「この人は私の母親そっくりだが、にせ者だ」と語る人もいる。
この両者の場合、程度の違いなのか、表現方法の違いなのか、別の現象なのか、問題がある。