心についての説明の物語

現代のわたしたちは科学文明の住人に似つかわしく、
「うつ病についての科学的物語」に取り囲まれて生きている。

考えてみれば、いろいろなタイプのうつ病は昔からあったに違いないのだ。
それなのに、それにふさわしいような名づけはなかったし認識もなかった。
そして対処法もなかった。
あるいは違う対処法をしていた。
たとえば、大切な人を失ったときはしばらくの間休養をとることが作法であった。49日など。
またたとえば、大切な人を失った場合、あだ討ちが認められていて、そこで心理的な補償が働いたりもした。
いろいろなタイプの人がいたと思うが、なかにシャーマンという人たちがいて、ユタやイタコとして活動していた。
霊感の強い人が今よりずっと活躍していた。
遺伝性については認識が早くからあって、
おじいちゃんの生まれ変わりだなどと的確に認識していた。

神社でのお払い。
お寺でのお経。
そういった対策で人々は納得していたものだろう。

納得できる物語があったのだ。
世界観があったのだ。
そしてその世界観はよく共有されていたので、
専門家が言うことに納得が行かないからと
怒る人もいなかっただろう。
共有された世界観の中ですべては説明され、納得され、感情の波立ちも、静まってゆく。

個人の生活史の中で起こるうつやその他の精神障害について対処するとすれば、
対処する人とされる人とが同じ理解の基盤を持っていることはとてもよいことだ。
しかし現代では、多少のズレがある。
薬を飲むことをすぐに納得する人もいれば、
「私の心は弱くないから薬はいらない」と語る人もいる。
「心の問題が薬で解決するはずはない」と語る。

そうであるなら、とりあえず睡眠と食欲を整えるために飲んでもいいはずだと思うが、
頑強に拒否する。
薬は心に関係しないのだから飲んだっていいはずなのに。
いろいろと考えているのだろう。

世界を広く、なるべく公平な目で見てみるとして、
聖書を信じている人、バチカンを信じている人、コーランを信じている人、
ブリティッシュ・メディカル・ジャーナルやアメリカン・ジャーナル・オブ・サイカイアトリーを信じている人。
いろいろいるわけで、どれかの領域の人が、その外部の領域の人に向かって説明をするときには、苦労することになる。

いずれの場合にも、背景にある世界観の体系が何であるかと同じくらいに大切なのは、
人格である。
この大事な問題に関して、
自分の理性は充分にすばやくついていけない、
その場合、目の前にいるこの人間の人格を信じて、その結論を受け入れるかどうか、
決断が求められる。

結局そのようなことが起こっている。