内部をモニター 擬人法

自分の内部をモニターする力は
先天的なものではないと思う

言葉がまず大きな力になる
言葉がないと体験を共有できない
自分の心を鏡に映すこともできない
言葉の網の目を細かくすることによって
内部モニターの微細さが向上する

映画も有効である
映画の時間を生きることで脳のシュミレーション回路が試される
とても変な映画の場合には
自分の脳とのズレを確認すればそれでよい

内部モニターができれば
それを他人に適用できる
こんなときはこのくらい悲しいとか
こんなときはこれくらい悔しい、楽しい、わくほくだ、とか

そのようにして把握していれば外部世界との不一致も敏感に確認できるし訂正もできる

訂正できないといつまでも間違った世界モデルにしたがって生きることになる
それはかなり苦しい
被害的になることが多い
自分を訂正できない以上、外部世界を自分に被害を及ぼすものとして解釈する傾向になる
被害妄想が多いのは
脳がいろいろな壊れ方をしても、結局自分が生きにくいと感じたときには、
世界が自分に被害を及ぼすと解釈すれば
自分の世界モデルを訂正しなくてもすむからだろう

誇大妄想や微小妄想もあるが
それらも気分の変動に応じた二次的な産物かもしれない

他人の心を推理できると
とても有利になる

擬人法というものがあって
心のないものにも心があるかのように解釈する方法で
それが一般に広く共感を持って受け入れられているということは
やはり各人が自分の心の状態をモニターしていて
多くはそれを他人や犬や石ころに適用している

投影ともいう

あ、石ころが寂しいってないてる、つれて帰ってあげよう、など