風景構成法再再論

風景構成法が終り、最後に患者さんに感想を聞く。
「へんです」「へたです」と語り、
どこが変なのか、語りだす。すると、その一つ一つの指摘は正しい。
すると、空間構成を支配している脳の部分は、書くという運動に通じる部分と、見るという感覚する部分とに分かれていて、
これで上手だとは思わないで、書かざるを得なくて書いているに過ぎない。
書いたものを見れば、おかしいと分かるし、他人の作品を見れば、それがずっと上手だということも分かる。

だとすれば、もし、線を引くときに無限に訂正ができたとすれば、
正しい線の位置を選び出すはずであり、
そのことは、脳の中の風景の構成は正しいのだから、表現の技術だけが間違っているということになるだろう。

観察したときに、どちらが風景として自然かが分かっていること、それだけが、脳の内面での、風景の構成である。
それは慣れとか技術の問題である。

従って、風景構成法を患者さんが描くということには意味はないのではないか。
繰り返していれば、コツをつかみ、自分のスタイルをつかんだりするだろう。
それだけのことだ。続けて描いていればそれらしいものになり、
つまりは普通の意味でまとまりの良いものになる。
そのこと自体に治療的な意義があるのか、議論がある。

どんどん平均からずれてゆく傾向を示すことはまれで、
それは明白に、その描写が、平均からの逸脱を志向していると考えざるを得ない。

何しろ自分は画面を見ながら、一瞬先をイメージしながら描いているはずであって、
自動書記でもないのだから。

しかし一方、理屈はともかくとして、
風景構成法は私は大好きで、
そこには治療者が介在しないで成立する患者がいる。
そして治療者の解釈を許容する以前の患者がいる。
実におもしろいものだ。