性格のたまねぎ構造―2

たとえば、もともとの性格が
MADで、循環気質で、にぎやかで、人好きがして、いいやつだったとして、
やはり多少おせっかいだし、俗世間的なところがあるので、
超俗的な人に憧れたりするものだ。
そこで性格は一つの戦略として、
純朴なMAD(チクロチーム)の外側に、ひとつ鎧をつくる。
それは周りの人のことなんか私にはあまり関係なくて、
真実重要なのはこの宇宙と神と私の三者なのだとか、
そんな超越的な事を考えているふりをしてみたりするのである。
シゾチームという。
それでしばらく生きていると、やはり具合が悪くて、
生来のおせっかいで、人間好きは隠せないので、
シゾチームの衣を脱ぎ捨てるのではなく、
シゾチームが地なんだというふりで、その上にさらにチクロチームの鎧をまとうのである。
そうするとかなり社会性を帯びて、かっこよくなる。
普段はいいやつで、
酒を飲むとちょっとシゾチームなところが見えてしまったりして、
ニヒルになったりもする。
そうこうしているうちに、なんとなく年もとり、いいやつとばかり思われていてもつまらなくて、
もう一枚シゾチームの衣をまとい、神秘性を装うようになる。
するとますます渋い男になる。
チョイワル親父なんかよりも遥かにもてる。
ここまでの道具立てを作っておいて、
ある特殊な関係のときだけ、上手に退行して見せる。
それがまた魅力となる。
女性にすれば独り占めしているという快感がある。
そんなわけで多重的な構造をとるのだ。
これは多分都会の知的な階層のことだろう。
田舎の純朴な人たちはそのまま純朴でいいと思う。
たとえば銚子の港町で、複雑な層構造をした人格がいたとしても、
あまりおもしろがられないだろう。

純朴というのは、わたしのおばあちゃんのような人で、
とてつもなく分かりやすい。
心の動きが全部表情に現れる。
これあげようかといえば、
口ではいい、いらないと言いながら、手はもうすでにこちらに動いているのである。
こころと顔の表面が1ミリくらいしかない。
それが純朴というものである。

おじいちゃんは愚か者だったと私は思う。