詩経から古今集へ

古今集の四季の歌は、
自然の運行や宇宙の呼びかけに対し
当時の歌人たちが
歌で答えたのではないかと、
竹西寛子の考察。

これは特に珍しいものではなく、
中国古代の詩経では顕著に、天への願いであり、呼びかけであった。

中国古代では、天から人への通知は、易教である。
今でも易断として残っているが、
天からの通知を亀の甲羅で占ったりしていたものだろう。
天気や季節については、
農耕の関係で現在よりもかなり切実に考えられていたはずで、
いろいろな微細な兆候を判断の根拠としてあげていたのではないかと思う。

天から人へのメッセージを易として受け取り、
逆に人から天へのメッセージは詩経としてまとめられている。
各地の収穫を願う歌などの集積だろうが、
かなりまともに天へのメッセージと思っていたと思う。

その泥臭い感覚からすれば、
古今集の四季の歌などは洗練されすぎていて、
やはり文明化の果てというしかないものだろうと思う。

詩経では豊饒を願っての類感呪術がたくさんあり
登場するのは多産で生命力盛んな生き物たちである。
それはほとんど未開人の習俗を連想させる。
血まみれである。
古今集になると描かれているものもかなりきれいにまとまっていて、
着物の柄のようである。
抽象的な模様である。

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実際、詩経を読んでも、解釈は難しく、解説頼みである。
読解には文化人類学が役立つ。
これは人間の心理のさらに古層にあるものといってよいものだと思う。