つながる生命 清水博 動的秩序の形成

帯津先生はとにかく自分がエネルギーレベルの高い人で
周りの人を巻き込みながら進む

清水博は『生命を捉えなおす』のなかで「情報の動的秩序のふるまい」によって「生命」を捉えようとしていた。いまこのような見方は生命論や生命情報論や自己組織化論の主流のひとつである。
生命を構成する物質・分子は入れ替わっているわけで、そのことを受け入れる限り、重要なのは構造で、いいかえれば情報だということになる。

情報学としての側面で生命論を言えば、現代ではいろいろなネタがある。

バイオ・ホロニクス、または生命関係学はそんな関係のことで、プリゴジンの散逸構造論の話は一時話題になり、最近では廃れ、リミットサイクルが生み出すリズム振動子の研究の現状とセルモーター(細胞エンジンのモデル)の研究などの動きもあったが、展開しきれずにいる。

動的秩序は自己生成する、そこには非平衡非線形の現象があらわれている。リズム振動が形態形成をしている。そこには「場の情報」がはたらいている。そして関係子がかかわっている。清水は『生命に情報を読む』『生命知としての場の論理』『生命と場所』などでどんどん展開するがだんだん誰もついていけなくなる。

元素や分子を説明しても、生体の特質に至らない。特に脳のこと、意識の活動、特に自意識については、研究の壁がある。

いったい物質の組み合わせでしかないはずの生命体が、いつのまにか「生きているもの」になり、脳が出現して、この宇宙でかなり異質・特異な存在になっている。これをどう解釈したらよいのか。高度に組織化された物質にはなにか特有な性質が「加わる」というのはよくある発想で、広く言えば創発説(emergency)のひとつである。見込み唯物論promising materialismと私は考えている。遺伝子-ゲノム-オルガネラ-細胞-器官-個体-生物社会-生態系と並べてみて、下位構造に還元できない不思議な何かが加わっているだろうといえばそうなのだけれど、わたしには、それは人間の知恵が足りないからそう見えるのだと思える。一種の創発性説ではないかと思えるが、これは私の理解が間違っているのだろう。

磁石が強い磁力を発現するのは、構成要素が変わったからではなくて構成要素間の関係が変化したからである。原子磁石の並び方が変わったからなのである。ということは相転移では無秩序なものから秩序のある状態が形成されているということになる。そうならば、生命はまさしくこのような「秩序をつくっている系」なのではないか。このようにいわれれば、確かにそうなのだが、並び方が変わっただけだともいえるだろう。

生命系は「相転移によって秩序をつくる非線形な熱力学的非平衡系」で、生命は熱力学的非平衡系の「開放系」である。「動的秩序の形成」が本質である。

生命現象は秩序をつくるので、エントロピーの法則の逆を行っていて、なぜなのか、不思議なことだ。そのことを不思議だと思うけれど、創発性とは言わなくても将来わかるんじゃないかと漠然と思っている。我々にはまだ測定法がないだけだと思っている。私のほうが激しい見込み唯物論者かもしれない。しかし物質の科学としては、いま無理をして説明しないで、待っていればよいのだと思う。

イリヤ・プリゴジンが「散逸構造」とよんだもの、「非平衡開放系の構造」、情報が「ゆらぎ」を含む動的秩序をつかって自己組織化をおこしていくときには、生命現象のそれぞれの段階の情報が「関係子」としてはたらいているのだという仮説。関係子はアーサー・ケストラーの「ホロン」(全体子)からヒントをえた新しい概念であるが、それはたんに“全体を知る部分的要素”というのではなくて、その場その場の情報を「場の情報」として感知するものだとみなした。

こんな具合にカオス学は脳研究者に愛用された。

「動物は脳にカオスが発生しているときにのみ新しい記憶を学習しているのではないか」という説。
平衡統計力学、非平衡非線形の統計現象、自己組織化のプロセス、カオス、計算不可能性、脳の謎、脳のモデル。

行き詰ったので、
「先行的理解」(Vorverstandnis)という方法を、ディルタイ、ハイデガー、ガダマーらにならって言い始める。
一連の文章があるとすると、第1行目を完全に理解してから次に進むのではなく、とりあえずの先行的理解をしておいて次に進んでいくというようなことである。科学は各ステップで検証して、一歩ずつ進むものと決まっているが、現場はそんなものではない。先行的理解があって始めて、前進力が生まれる。そうでないと、アメリカの成果の追試だけになってしまう。

「物語性」と「もっともらしさ」の導入については、科学におけるメタファーの力を許容する方向をもつ。このあたりは河合先生などの活躍した場所だ。動的脳観というものもあり、物語的なのである。

自由度の大きな力学系があり、部分的に自由度が活性化され、それが支配的になるが、またあるときは別の部分的な自由度が活性化され、それが支配的になる。このようなことが時空間のさまざまなスケールでおこりうる。そして、支配的になる自由度の再編成は、その系(システム)の過去の全遍歴に依存する。大きく言うとそんな景色で、生命とか脳とかは、そのような大局的な動きの中で生じたものと考える。
人間を力学系のひとつと確かにみなしているので話は通じているように思うが、なかなか難しい話である。

最近は脳科学は全体論的な志向よりも部分解析的な志向を強めているように感じる。

あんまり先走って先行的理解ばかりをしても実りがないと知ったようだ。
なによりも、書いても分かってくれる人が少ないし、勝手に誤解してしまう人のほうが多くて、誤解の仕方も激しくて、絶望するらしい。