「実践的精神分析入門」オーウェン・レニック

入門というので
入門しようと思ったが
なかなか難しく
入門もできそうになかった。

途中まで読んでしおりをはさまないで寝てしまい、
続きを読もうとしたとき、
どこからが続きなのか全く分からなかった。

わずか三行の間に
矛盾したことが書かれているような気がして、
その謎が解けない。
単なる誤植なのかもしれない。
あまりにも明らかに矛盾していると思うが
わたしが理解していないだけだろう。

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途中でフォークナーの小説「死の床に横たわりて」が出てきた。
本筋とは関わりがないが、そんな事だけが印象に残る。

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電球のジョーク。
「電球を取り替えるのに分析家はたった一人いればいい。
ただし、その電球が変わりたいと思う必要がある」

分析家は患者の治療利益を考える。
患者は症状軽減を希望する。
その事と、「自己認識を深める事」「洞察する事」が一致していれば、
幸福である。

分析家は、
症状が何であるか、
症状軽減のためには「洞察」すればよい、
そんな事を伝える。
もちろん、患者はそれを求めて分析家を訪ねているのだから。問題はない。
他の事をしたいなら、分析家を訪ねない。

その意味では、分析治療が少数派でかつ有名なものになっているので、
そこまでの同意はすでにできている場合が多い。
そうでなければ、なにもわざわざ分析家を訪ねない。

レニックは、実践的精神分析においては、
分析家は主観的な自分の見解を礼儀正しく生産的に患者に示すことがあると書いている。
また、患者の精神生活の問題となっている部分を明らかにするだけではなく、変える事であるとも書いている。

上の部分は、
従来の分析の立場と違うようだ。

さらにさかのぼれば、従来、
分析家が目標とする事は、
症状軽減ではなく、
洞察であり、自己認識である。

ところがレニックは
症状軽減が目標であり、
それが患者の治療利益であるという。

洞察が深まれば症状は消えるものだし
一時的に症状が悪くなったとしても、
分析家は洞察に焦点を当てているので、
症状は副次的なものだと従来は考えてきたと思う。

レニックは修正感情体験を肯定している。
それは「盲目の飛行」だといいつつ、肯定している。

飛行の着陸地点があらかじめ分かっていて
そこに誘導するなら
それは治療ではない。
心理誘導である。
マインド・コントロール。

従来は「盲目の飛行」さえよくないと言われた。
修正感情体験は洞察されるべきであり、
意識的に検証されるべきである。
あくまで「洞察」なのだ。

レニックは伝統的分析家から見れば、かなりはみだし者のようだ。

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精神分析は患者が実際の人生をより幸福に生きることを援助する治療法というより、
むしろ実際の人生からの逃避という自己陶酔を助長する少数派の実践である
とみなされたりする。

また、
世界中で精神分析治療を求める患者がますます少なくなり、
彼らのほとんどが自分自身で精神分析家になるか、
この分野に知的な関心を抱く後援者になりたがっている
というのも、驚くことではない。

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レニックは分析的中立性を踏み出すことを書いている。

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自己認識の限界がある
逆転移を分析するにも限界がある

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恐怖症的になるためには
メタファー能力がなければならない。

メタファー能力というのは、
私の言葉で言えば、
世界モデル2に入力を代入してみるということだ。

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ここまで書いてきて、
本書のまさに冒頭にくっきりとまとめられていることに気がついた。

患者は症状軽減を求めている。
分析家は症状が一時的に悪くなるかもしれないと思いつつも、
長い自己発見の旅を提案する。
症状軽減は二次的なものである。
分析治療の中心的な目標は自己認識である。

しかしレニックの実践的精神分析はそうではない。
洞察ではなく症状軽減が大切である。

洞察をするとして
洞察が正しいかどうかは結局
症状が軽減しなければ
判定できないし
症状が変化したとしても、
洞察とどう関係しているのか厳密に決定する事はできない

治療は
実践的で臨床的であるべきで
現実のさまざまな側面を修正し、
ストレスを減らし、
より多くの満足を得るようにすべきである。

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フロイトは
かれが大洋感情と呼んだものを病理としてとらえた。
フロイトは音楽に関して無関心だった。
性に関して著しく神経質だった。

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セクシュアリティに関して、
神秘主義に関して、
フロイトとユングは異なる。