自我

自我というものは実体が分からない。
脳のこの部分を移植したら、
自我も移植できたというなら、
それが自我の実体だろう。
そんなわけには行きそうもない。
第一、右と左に似たようなものがあって、
かなり違うといわれているが、
時々は逆の人もいて、必ずというものでもないらしい。

自我というわけの分からないものを世界モデルと置き換えて、
それは刺激→世界モデル→反応
というもので、挟み込んで、定義していくことができる。

意識的でも無意識的でもいい。
ゆくゆくはコンピュータで置き換えようと狙っている。

だって所詮は情報の束なんだから、
現代の世界感で言えば。
ニューエイジ的に言えばいろいろあるれけれど。

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自我をモニターして、
こんなときは悲しい、こんなときはうれしいと学習し、
それがどうも他人は違うようだと分かったら、また学習しなおしで、
いつまでたっても大脳で他人と付き合うことになる。
自動的にうまくこなせる人は
世界モデルの出来がちょうど世界にあっていて、
その感じで世界に出力するとうまく行くのでますます自信をつける

でも、世界モデルがずれている人も有用なのだ。
まず世の中にはいろいろなずれた人がいるから、ひょっとしたら、
同じズレ方をしている人に出会うかもしれない。
営業で回っていて、そんな人に出会ったら、きっと売れるだろう。
世界が突然変わるかもしれない。
そのときは適応的な世界観になるかもしれない。
だから社会全体としては、多様な世界モデルをプールしておくことにメリットがある。

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判断の総体が世界モデルであり
認知機能であり
世界観である

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問題は、ある世界モデルを採用している人は、
自分の世界モデルを相対化して考えようとするときも、
その世界観で相対化するしかないという困った事情がある。

観察者が完全に無色透明にはなり得ない。

こんなことを言っているのも、
なに色かに染まった上で言っているのだ。