山内名誉教授の左右脳のお話

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司会.
脳には右脳と左脳があって、世間では右脳を活性化しないさいとか、
いろいろと言われているようですが、
一体なぜ似たようなものが二つあるんでしょう。

山内名誉教授.
腎臓や肺などは二つあって、しかもまったく同じ働きをしています。
ひとつが不具合になっても生きて行けるので大変好都合です。

脳は左右で少し違うようです。
事実、脳血管障害などで片方が不具合になった時は、時間をかけてリハビリをすれば、
だんだん片方が機能を肩代わりするようになります。
それは大変だとしても、子供の頃に、てんかんや脳の病気があって優位半球の手術をした場合など、
劣位半球が肩代わりして発達することが分かっています。

さて、左右がどのように違うかということですが、
実は、脳血管障害や脳腫瘍で、
左右同じ部位が傷害されたときに、症状がかなり違うことが分かっています。

生まれつきの右利きの人はたいてい左脳が優位半球なのですが、
その場合、左脳の運動野に異常が起こると、右側の手足に運動麻痺が起こります。
逆に右脳の運動野が傷害されると、左の腕や足が麻痺します。
そこまではいいのですが、

劣位半球の梗塞で、つまり、その人は、左手足が動かせないのですが、
動かせない事を認めません。
ですから、リハビリに納得してくれません。
Anosognosia(疾病否認)といいます。左半側空間無視を伴うことがあります。
不思議なことですが、そんなあたりに左右半球の違いがあります。

ここでさらに疾病否認について説明しましょう。

疾病否認はbody schemaについて考えるにあたっても重要な事例であり、
幻肢とともにメルロ=ポンティの「知覚の現象学」で扱われています。

身体図式と実存 メルロ=ポンティの身体論 竹内 幸哉 など

以下は「脳のなかの幽霊」からの引用です。

脳卒中で入院しているドッズ夫人は自分が入院していることなどの状況に関してはよくわかっているのに、
自分が左手を動かせないことをけっして認めようとしない、というところの記述です。

「手はどうですか? のばしてみてください。うごかせますか?」
ドッズ夫人は私の質問にややむっとしているようだった。「もちろん動きますよ」
「右手を使えますか?」
「ええ」
「左手はどうですか?」
「ええ、左手も使えます」
「両手とも同じくらいしっかりしていますか?」
「ええ、両手とも同じようにしっかりしてます」

さらに、ラマチャンドランはドッズ夫人が言っていることと視覚情報とが矛盾していることを指摘したらどう対処するかを調べます。(前にも書きましたように、疾病否認は半側空間無視を伴うことが多いので、ふだんは患者さんはその視覚情報自体を無視しています。そこで医師が無視している視覚情報に注意を向けるように患者さんを誘導したら何が起こるか、というわけです。)
「ドッズさん、右手で私の鼻をさわれますか?」
彼女は何の支障もなくそうした。
「左手で私の鼻をさわれますか?」
彼女の手は麻痺したままからだの前におかれていた。
「ええ、もちろんさわっていますよ」
「実際にさわっているのが自分で見えますか?」
「ええ見えます。先生の顔から1インチと離れていません」

ドッズ夫人は視覚情報よりも、自分の左手は動くという信念を重視し、その矛盾を作話によって対処しています。
私はもう一つだけ聞いてみることにした。「ドッズさん、手をたたけますか?」
彼女はあきらめたように辛抱強く答えた。「もちろんたたけます」
「たたいてもらえますか?」
ドッズ夫人は私の顔をちらっと見て、右手で手をたたく動作をした。体のまんなかあたりで想像の手とたたきあっているようなしぐさだった。
「いま手をたたいていますか?」
「ええ、たたいています」

このシーンからこの章の題名「片手が鳴る音」が付けられています。 白隠の公案の「隻手の音声」です。

この記述のほかにも、「今日は肩が痛いので左手を動かせない」という言い方で対処する例、麻痺している左手を自分の手と認めず、死体の腕がベッドの中に入っていると主張する患者さんの例などの記述があります。

この症例で重要なのは、視覚情報を凌駕するほどに、自分の腕は指令通りちゃんと動いている、という信念が強いということです。そしておそらくそれは、麻痺した腕に運動指令を出したにも関わらず、それが正しく実行されたというふうに内部でモニターしている機構が感受したことに基づいているのでしょう。視覚って他のモダリティよりもものすごい強烈なものだと一般的には考えられているわけですが、それがひっくり返るところに驚きがあります。(引用終り)

もっと有名な話では、
ブローカ野とウェルニッケ野の話があります。

ある患者さんは、人の言葉を聞いて理解できるのに、
「タン」としか言えなくなりました。
死後に解剖して見ると、現在運動性言語野=ブローカ野と呼ばれている部分に
梗塞が発生していることが分かりました。

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もうひとつは、ウェルニッケ野と呼ばれていて、
感覚性言語野と言われています。
論理的に対称的に考えれば、
言葉は言えるけれども、言葉を聞いて理解はできない、音はよく聞こえる、
となるはずですが、
実際は、単語を発音できますが、意味がはっきりしなくなりますし、
字を書くことはできますが、意味を伝えることは難しくなるようです。
ですから、純粋に感覚性言語野というべきでもなくて、
何か総合した言語理解の機能があるようです。

これらの、ブローカ野やウェルニッケ野は優位半球だけにあるのです。
劣位半球の同じ部分が脳梗塞を起こしても、このような言語症状は
現れません。

脳外科の手術をするときに、優位半球のブローカ野やウェルニッケ野に
手術の影響が及んでしまうと、
後遺症として言語の傷害が残りますから、
かなり注意するわけです。
そこで、優位半球の見分け方がいろいろとあります。
左利きと言っても、優位半球は左である人も多いのです。
ですから、本当の優位半球はどちらで、ブローカ野とウェルニッケ野はどちらにあるかを
推定するわけです。

右利きの人で数%、
左利きの人で30~50%程度が
右半球に言語野をもつと言われています。
左利きの人は右半球が優位のことが多いように思われますが、、
多くても半分でしかありません。
総合的には90%以上の人では言語野は左半球にあるということになります。

つまり、言語の中心と運動の中心が
右利きの人はほぼ一致していて、左脳にあります。
一方、左利きの人は、運動の中心は右脳にあるわけですが、
言語の中心は左脳にある人が50~70%、
言語の中心も右脳にある人が30~50%というわけです。
左利きの人の50~70パーセントの人は
運動の中心と言語の中心が左右に別れていることになります。

ということは、その人たちは、言語活動と運動とをつなぐのに、
右と左を密接につなぐ必要があります。

どちらか片方の脳に集まっていれば、
場所が近いので、連絡はし易いわけです。

左右の脳をつなぐのが脳梁というものですが、
どちらかと言えば、女性の方が脳梁は発達していて、
左右の脳の連絡がいい傾向にあると
言われています。
個人差は大きいでしょうが。
もともと男性脳の方が大きく、
脳梁の絶対値には男女の差がないので、
あまり意味はないのではないかと言われてもいます。

脳は感覚/直感/イメージ、左脳は論理/分析/計算などと
大雑把に言われることがありますが、
そんな考えは頭が単純すぎるので、
どこか血管が詰まっているのでしょう。

感覚/直感/イメージは最も高度な部分では論理/分析/計算と見分けがつきません。

直感と論理が一致するというのが、頭がいいということです。統合された働きです。
これがズレているのが、頭が悪いということです。
私は直感は鋭いのよという場合、物事を論理的に考えられないような頭の悪さだと公言していることになります。

司会.
では左右半球があることの意義は、
二つの腎臓とはまた違ったことになりそうですね。

山内名誉教授.
そうです。わたしは優位半球に、自動機械=世界モデル1が存在し、
劣位半球に自意識=世界モデル2が存在すると、
大きく割り切って考えたらどうかと思います。

司会.
それはあんまりでは。

山内名誉教授.
DSMでの、統合失調症やうつ病についての大胆不敵な「割り切り」
から考えて、グローバル・スタンダードだと思うがなあ。

司会.
でも、それだと、言語と運動の分担はどうなりますか?

山内名誉教授.
運動は自動世界モデルに直結している。
猫でもラットでもそうだ。

たとえば、自転車にはじめて乗ったとき、とても集中して、
体のあちこちを調整する。だんだん慣れてくる。
ピアノを習い始めたとき、はじめはすごく意識的で、
そのうち指が自然に動くようになる。

これは、最初は自意識と自動機械と小脳が連動して動いている。
次第に自動機械と小脳が連動して、
自意識は別の事を考えていてもいいようになって来る。
ジャズピアニストは、今夜の密会の事を考えて楽しい気分になりながら、
悲しい別れの曲を弾くことだってできるわけだ。

司会.
そうですね。それは分かり易い。
でも、では、猫の劣位半球は何をしているのでしょうか。

山内名誉教授.
そうだね、自意識の萌芽のようなものがあるのだろう。

言語は最初から最後まで自意識と自動意識が共同して動いている。

場合によっては、意識せずにセリフが出て来ることがあるが、
それは役者とか職業的な場合が多いでしょう。

自意識からも自動機械からもイメージは湧いて来るが、
それを最終的に表出できるのは、自動機械側のイメージであることが多い。

司会.
なるほど、そうですね。
最終的な身体というか筋肉に直結しているのは優位半球の側だと。

山内名誉教授.
右手左手なら別々に動かせるが、
言葉を話す場合に、
優位半球と劣位半球の信号が別々だった場合、
やはり優位半球の側の信号をアウトプットすると思う。

司会.
口角の右と左で、笑いつつ、怒るということがあるでしょうかね。

山内名誉教授.
そうね、そんなことができれば、名優でしょう。

右利きで、左脳優位の人(右利きの大多数)は、左脳に自動機械があるはずですね。
左利きで右脳優位の人(左利きの多分半分以下)は、右脳に自動機械がはずです。
なぜなら、世界をコントロールするには、利き腕のほうが有利だからですね。

さて、そうだとして、感覚刺激は、少なくとも、優位半球、劣位半球、小脳に入力されていて、しかもそれぞれ、利き腕、反利き腕、両方に出力されているのだから、
それぞれに世界モデルができるはずで、世界モデル1.と世界モデル2.と小脳世界モデルと名づけておきましょう。

小脳世界モデルは、伊藤先生が問題にしたものですね。

世界モデルは、この「現実世界」のあり方をいわば「逆にした像」であるわけです。
たとえば、石をどの程度の力でどの方向に投げたら、あの鳥にぶつけて、
焼き鳥が食べられるかと考えます。
ついでにホッピーも欲しいですが、それは無理ですね。

つまり、世界の進行を予測するわけです。その予測が精密であればあるほど、
世界を生き伸びる率が高くなります。

予測の結果を確認するのは外部からの刺激を確認することによりますから、
感覚のモードと運動のモードで、現実世界を切り取って、
逆向きの姿を形成しているわけです。

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世界モデルにとっては、S:刺激が入力で、R:反応が出力ですが、
外部世界にとっては、逆になっていて、
ここでいう、世界モデルからの出力R:反応が入力で、
S:刺激がぎゃくに現実世界の出力であるわけです。
その意味で、まさに世界モデルは外部世界を写し取っているわけです。

このときの現実世界とは、獲物になる鳥がある速度で飛んでいるという現実です。
それ以外の観察には興味がわかないかも知れませんし、そもそも人間はすべては感覚できないのです。
たとえば、歳をとってくると、耳の感覚が鈍くなってきて、限られた帯域の周波数しか聞こえなくなります。
非常に悲しい事ですが、そのような現実があります。

その限定の範囲内で、世界モデルを時々刻々と形成するわけです。
何のためかと言えば、未来の予測を精密にするためです。

司会.
なるほどよく分かります。まるで自分が書いているみたいです。

山内名誉教授.
さて考えてみれば、三つの世界モデルに入力される刺激はどれも同じです。
出すから、24時間一緒にいる八百屋さんのご夫婦みたいに、世界観は限りなく一致するはずです。
違う事を観察していないのですから。
運動出力は最終的に自動機械または小脳の役割ですが、
入力系については、どれも公平に、情報を共有しているはずです。

小脳世界モデルは、自動機械モデルの縮小版のようなもので、実際の運動機能遂行には大きな役割を果たしますが、
自意識と自動機械のずれ、つまり、自意識の病理については、あまり影響を与えないようです。
むしろ、自動機械からの出力を能率よく遂行する子分みたいなものでしょう。

さて、世界モデル1.と世界モデル2.は同じ入力に対して、ほぼ同じ判断をして出力します。
なぜなら、外界の反応という正解がいつでもあるわけですから、その正解にいつでも沿うように、
世界モデルを修正するからです。
脳に異常がなければ、世界モデル1.と世界モデル2.は限りなく一致するはずです。
入力が同じに決まっていますし、出力が違ったら、修正するようになっているのですから。

ここで考えて見ると、修正のためには、まず比較、訂正、検証のプロセスが必要であることが分かります。

比較は、世界モデル1.と2.の比較ではありません。それが意識的にできていれば、病気にもならず、
良い適応を示すことでしょう。世界モデル1.と2.のずれはなくなるだろうと考えられます。1.と2.のずれが病気をひきおこします。

世界モデル1.と現実世界の比較、これは直接にできます。
世界モデル2.と現実世界の比較は、2.からの反応と1.からの反応を比較する事によって可能になります。
世界モデル2.は直接外部世界からのフィードバックを受けていないのです。
その意味で、世界モデル1.よりも厳密でない、自由である、幅が許される、プロセスの厳密さが要求されない、飛躍を許される。そうした特性があるでしよう。

もちろん、世界モデル2.からの反応を世界モデル1に入力して、そのことで世界モデル1.に外界をテストしてもらうことはできます。それがうまく行けば、世界モデル1.もそのモデルを取りいれるでしよう。

そんな具合で、世界モデル1.と世界モデル2.とは、ほとんどおなじ事を体験しながら、出力の仕方が異なるために、多少のズレが発生します。
もちろん、多少は世界モデル2.の方が空想的であり、多様なシミュレーションを展開することになります。

司会.
さて、そのように見て来ると、
優位脳=自動機械=利き腕運動機能=外部世界のより精密な世界モデル
劣位脳=自意識=多様なシミュレーションに適したモデル
としていいようですね、

(利き腕側)運動の中枢と言語の中枢とが一致している場合はと、左右で別れている場合がありますが?

山内名誉教授.
それは言語の運動野とか言語の感覚野というだけのものだろう。
現実に似たようにものが二つあり、
理論の要請としても二つあると言うのなら、対応させたいと思うのが素朴な直感じゃないか。

司会.
いずれ実験で、というわけですね。

山内教授.
さてそこでやっとこの図を見ていただきたい。


簡単版


つまり、感覚入力があったときに、世界モデル1.=自動機械と世界モデル2.=自意識は、
それぞれに出力をします。
そしてそれは今までの人生の総和だから、あまり大きくずれることはないはずでしょう。
ズレがあったとしても実用的には問題のないズレであるはずです。病気以外は。
ただ、その結果が「判定部位に」到着するときの、早い遅いがあるはずです。
実際に早い遅いというより、どのように調整するかということなのですが。
それは身体の各所からの感覚刺激が、実際には時間差があるはずなのに、
同時の時間体験として感じられることがヒントになります。
そのような時間調整があるのだと思います。

そしてここで自我の能動感が発生します。
自我の能動感は本質的に重要で、
これが失われることの違和感に深く悩みます。

しかし患者さんは自分の内部で起こっている事を
ラマチャンドランのような天才的な洞察で語ることが出来るわけではありません。
誰にとっても、見慣れない風景なのです。
たとえば、海外に出掛けて、思いもかけないすばらしい光景に出会い、それを
手紙に書くとか電話するとかして、
どんな言葉がふさわしいものか、困ったことはありませんか?
体験を伝える共有のダイレクトな言葉はないのです。
多くはたとえ話になります。
それがさせられ体験や幻聴です。

判定部分に、自意識側の信号が一瞬早く入り、
その後で自動機械からの信号が入ったときには、当然、
能動感が生じます。
それが体験の普通の構造です。
そのように調整されているのです。

自意識側の反応があまりにも早く到着したときには、
「わたしには未来が次々に分かる」「予知能力がある」「私にはずべてが見える」などと言い始めることもあります。
これは時間調整部分にすこし不具合があるのです。

次に、自意識からの信号と自動機械からの信号がほぼ同時であった場合、
能動感は薄れ、自生思考に似た感覚となります。
そのような言葉で呼んでいます。

さらに自意識からのアウトプットの到着が遅れて、
自動機械からの信号の方が早く到着するようになると、
させられ体験になります。

これらのプロセスは移行するものであり連続するものです。
時間調整部分は細かく調整しているはずです。

これが自我障害と言われるもので、統合失調症の初期によく見られることが分かっています。
しかし、これが統合失調症の病理の本質とは思えません。
なぜあのような崩壊性の病理が発展するのか不明です。
また、最近の軽症化についても不明です。
軽症化した場合には、崩壊性の病理を呈しません。
その場合に何病と呼ぶべきなのか、問題があります。
統合失調症の軽症型、プロセス頓挫型というべきなのか、
別のことなのか、あるいは薬剤が効いているのか。

一言すれば、時代と共に変化しつつある、
軽症化の部分については、
病理の根本とは関係のない、
反応性の部分であり、
ここから見えて来るのは、現代という社会の一面であろうと思います。

その意味では、精神病理学は社会病理学の一方法となるわけです。
しかし時代によって変わらない、統合失調症の崩壊性病理の本質、
それ何であるか、まだ分からないのが現状です。

目で見て分かる変化があるわけでもないし、
血液検査をしても変化が出ませんので、
方法論として別の革新が必要なのだろうと思います。