臨床心理士採用模擬試験-2

臨床心理士採用模擬試験
以下の優秀論文を読み、問に答えなさい。
問1.変化した内因性うつ病に残存する「不変項」は何であるか、かみ砕いて、述べよ。
問2.治療論について、自分のカウンセリングスタイルの中に取り入れることができる要素があれば、それを具体的に述べよ。

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精神療法第32巻第3号

うつ病態の精神療法

現代型うつ病

松浪克文*上瀬大樹*

はじめに

われわれが,1991年に発表した「現代型うつ病」(松浪ら,1991a)は,比較的若いサラリーマンなどに典型的に見られる軽症の内因性うつ病の変異型で,抑うつ気分よりも制止症状が前景に立ち,恐怖症的心性に関係すると思われるいくつかの特徴を有する。われわれは当初,この病像を,大都市における職場倫理・生活意識の現代的変質や現代人の性格傾向の変化が内因性うつ病の病像を修飾しうることを例証するものとして提示した。病像が変化したのだとすると,うつ病像のうちの何か変化したのかがまず問題となるが,われわれはむしろ何か変化していないのかを明確にとらえることもまた重要ではないかと考えた。なぜなら,あるものが「変化した」といいうるためには,変化の前後を通じて不変のままとどまっている成分が存在することが論理的に要請されるが,その不変のままの成分や性質こそ,そのものの同一性を保証するものだからである。つまり,現代的な病像変化を被ってもなお変わらないでいる特徴,つまり変化した内因性うつ病に残存する「不変項」の抽出がうつ病の本態を知る上で貴重な手がかりとなると考えたのである。

I 症例呈示

1991年の発表において提示した症例を再度提示する

34歳の地方出身の技術者。2人兄弟の長男。国立高専卒業後,入社。共働きで子どもはいない。長身で痩せ型,色白,神経質で几帳面な性格。妻によると,家では何でも一人でやってしまって手がかからないとのこと。謙虚な態度で物腰柔らか,気弱な感じである。和太鼓を趣味にして9年になる。また中学時代にやっていたバレーボールを今でも続けている。入社時,希望とは異なるコンピューター部門に配属されてがっかりした。コンピューターは時代の花形分野だが,「緻密で先端的なものは嫌いなんです,もっとひっそりと自分のペースでやれるようなものがいい」と述べた。学生時代に初めてコンピューターに接して,これはいやだなと直感したそうで,「機械が好きで論理的に動くものは嫌いじゃないけど,どういうわけかそう思った」と言う。朝,家を出るときに会社に行きたくないと思う,ということを主訴に精神科初診。2年前から出社するのが嫌だという気持ちがあったが,初診前年の2月ごろがいちばんひどく,1週間続けて休んでしまった。今の仕事は続けたくないと思う。休んでいる日は,家でテレビをつけて,ぽけーっと観ている。初診時の5月から9月まで4ヵ月の病休をとった。嫌なヤツがパートナーになった頃から休みたい気持ちが強くなった。

それまでの本社勤めでは,仕事は嫌だったが気持ちはフレッシュで頑張っていた。「今考えると,なぜあんなに馬鹿みたいに頑張っていたのか不思議でしょうがない」と当時を述懐し,今は仕事中もぼーっとしていて,集中力かなく,能率は半分以下に落ちている,と訴える。入眠困難,熟眠感のなさ,早朝覚醒が続いている。「何かいい仕事はないかな,と思うけど自分に合う仕事がわからない。……会社は辞めたくないけど,出たり休んだりではねえ……。内心,困ったなあという感じです」と斜に構えたような当惑顔。4月の病休明けから制限勤務(50%~80%)を続け,6月にはパートナーを変えてもらったが,症状がなくなり抗うつ剤を中止する段階になっても,「自分のペースを守るために」制限勤務を希望した。さらに8ヵ月間の制限解除状態を続けた後に配置替えとなった。なんとか出勤していたが,2ヵ月後に再び集中力低下,易疲労感を訴えて1ヵ月間の病休をとった。この病休から復職するとき,動悸,発汗,めまいを伴った強烈な不安に襲われ,会社の社屋の前で身体がふるえて中に入れず,帰ってきてしまうというエピソードがあった。職場が恐いと言い,あのあわただしい仕事の流れの中に戻ることがつらい,と語った。

以下に,この症例記述に即して,いくつかの特徴的な点を項目に分けて整理してみる。

1)主訴(主症状):「会社に行きたくない」というのが初診時の主訴であった。患者は,一旦は会社に適応したようで「フレッシュな気持ち」で「馬鹿みたいに頑張っていた」のであるから,会社に行きたくないと思うことは患者にとって,異常かつ異質な事態であり,これが主訴となったのであろう。しかし,初診時には他にも「集中力がなく,能率が半分以下」と訴えており,また職場復帰途上で挫折し再び病休をとる時にも「集中力低下,易疲労感」を訴えている。これらは制止症状ととってよいと思われるが,こちらの方が患者の社会的機能を深刻に損なう障害を直接的に表していることは明らかである。ただし,初診時に苦境を訴える話しぶりは比較的要領を得て,とつとつと話すがさして滞ることがなく,質問にもほぼ的確に応答するので,制止症状の程度は比較的軽いと言えるだろう

2)恐怖症:復職時に吹き出した「動悸,発汗,めまいを伴った強烈な不安」もまたこの症例の症状論的特徴である。「あのあわただしい仕事の流れの中に戻ることがつらい」という述懐からは,この恐怖症の対象が「あわただしさ」の中に身を置くことなのだと推測される。初診時には取り立ててはっきりとした恐怖症的心理は訴えられなかったからか,復職時にパニック発作様の恐怖が出現したことは治療者にとっては,予測不能と言うわけではなかったものの,やや唐突に思えた。遷延化したうつ病例に時に見られる復帰時の恐怖症の状態と酷似しているが,後述するように,遷延化例でこのような恐怖症状が出現するときには,すでに何回かの復職に失敗し,復帰に難航している場合が多い。換言すれば,初発の病相からの復帰時において早くも,遷延化例におけるような恐怖症状が出現することが特徴的だと言えるだろう。この恐怖心の背景には次項に述べる忌避感が存在する。

3)忌避感:患者は現代社会に含まれる何らかの属性を忌み嫌うという心理を学生時代(おそらくそれ以前)から自覚している。この症例では忌避の対象が「コンピューター」「先端的なもの」と表現されている。この心理は当然,主訴の「会社に行きたくない」「仕事を続けたくない」という心理の背景に潜在していたものと思われる。初診後,会社を休むようになったのは「嫌なヤツ」がパートナーになったことがきっかけだったが,しかし,この特定の人物への嫌悪はそれ以前から訴えられた忌避感とは異なるようである。というのは,後に「嫌なヤツ」がパートナーではなくなってからはこの嫌悪感は消失したのに,何かに対する忌避感は存続しつづけたからである。実状は,心底にある忌避感に耐えて勤続してきたところに「嫌なヤツ」が現れ,それがきっかけとなって忌避感がつのってはっきりとした拒否感となった,ということであろう。この心理の移り変わりについては,まず漠然とした忌避感があり,それが発病時に明確な拒否感と形を変えて自覚され,復帰時には恐怖症的心理になったという道筋が考えられる。

4)当惑感:患者の「斜に構えたような当惑」もこの症例の特徴である。「ぼーっとする」ことや能率の低下に困り果てているという風情のこの陳述は抑うつ気分の表現だと解せなくもないが,休日に家でテレビをつけてぼーっと見ていると述べており,抑うつ感ははっきりとは言語化されうる程には深まっていない。(私見だが,テレビを観られるかどうか,どの程度楽しめるかは,うつ病の症状の重症度をかなり正確に反映している)。この当惑感は苦境の中にある人間の呻吟というよりも,むしろ自分の能率低下や意欲低下の状態から少し距離をとった視点を保持し,第三者的に自分の状態を見ていることを示している。また,「何かいい仕事はないかなと思う……」という後の述懐には半ばあきらめたような醒めたトーンがあり,“もともと嫌だったが,やはりはっきりと嫌いになってしまった,やはりだめだったか”とでもいうような心理がうかがえ,患者にはこの苦しい事態の到来が以前から察知されていたように見える。

5)所属意識の希薄さ:患者は「何かいい仕事はないかな,と思うけど自分に合う仕事がわからない。……会社は辞めたくないけど,出たり休んだりではねぇ……」と述べており,自分の勤める会社にさして執着はないように見える。辞めたくはないけど,辞めることもしかたないかなとでもいうようなこの述懐に,会社への帰属意識の希薄さが伺える。もちろん,この所属意識の希薄さの背景にも上述の忌避感が存在するのであろう。患者は入社後,仕事をこなすという意味での適応努力をしたが,上述した忌避感のために,職場に緊密に同化する気持ちには至らなかったものと思われる。また,34歳になっても「自分に合う仕事がわからない」と述べていることから,特定の社会的組織への帰属意識が希薄なために,アイデンティティが分化しておらず,一種のアイデンティティの混乱が重畳しているように見える。

6)性格:患者は「長身で痩せ型,色白,神経質で几帳面」であり,「謙虚な態度で物腰柔らか,気弱な感じ」の人物である。身の回りのことでも「何でも一人でやってしま」い,妻に負担をかけない,というところからは,助け合うことに含まれる負債や返済という連携を避けているような心理が伺える。おそらく返済が重荷となることを予想して緊密な一体感を抱くことに危険を感じるようなタイプで,配偶者に対してでさえ相互依存的関係性に至らず,どこかあっさりした関係性を保っている。

7)趣味:和太鼓やバレーボールなどの趣味的活動を長年続け,職業を続けていくことが困難になった時期にも維持された。患者にとっては,これは1週間のうちの決められた定期的活動であって,なぜずっと続けているのかと聞いても,上手になるのが楽しいとか,趣味を通じた人とのつきあいが楽しいなどの理由は述べられなかった。職場では比較的明瞭な制止症状が出ているのに,趣味は続けられるという点で,広瀬の「逃避型抑うつ」において「選択的制止」として記述された症状と,少なくとも現象面において同一であるが,趣味的活動が必ずしも楽しみのために行われているのではないように見える点で,多少性質を異にする(後述)。

Ⅱ 「現代型うつ病」の病像

おおむね提示症例と類似したうつ病像を「現代型うつ病」としたのだが,冒頭に述べたように,われわれはこれを中核的な,従来のうつ病象の変化像として捉え,主に「従来型うつ病」との比較を考察の中心にしていた。以下に,より一般的に,この病像について,「従来型うつ病」と比較しながら,解説する(表1)

表1現代型うつ病の特徴

①比較的若年者

②組織への一体化を拒絶しているために,罪責感の表明が少ない。むしろ当惑ないし困惑

③早期に受診→不全型発病

④症状が出そろわない;cf)SSD身体症状と制止が主景,選択的制止

⑤自己中心的(に見える);対他配慮性が少ない

⑥趣味を持つ;cf)逃避型

⑦職場恐怖症的心理+当惑感

⑧インクルデンツを回避;几帳面,律儀ではない

⑨レマネンツ恐怖;締め切りに弱い

「従来型うつ病」と異なる「現代型うつ病」の特徴は,①やや若い年齢層(30歳すぎから)に見られること,②患者は自分の言動や状態を異常だと感じており,ほとんどすべての症例で患者が自ら進んで受診すること,③症状が「不全型」であること(うつ病の症状が出そろっていないこと),④自責的ではなくむしろ当惑感を抱いていること,⑤職場への忠誠心や同僚への連帯感を表明せず,職場への帰属意識が希薄なこと,などである。

会社組織に帰属したくないという心理は,「別に会社の一員であることを誇りに思ってはいません」「社内のつきあいはできるだけ少ない方がいい」などと,気負うことなく淡々と表明されることが多い。また,提示症例のように「会社に行きたくない」という理由で仕事を休むという行動が怠業のようであるし,休むことが他人に与える負担を考慮して申し訳なさを表明しないのは自己中心的に見える。しかし,本来の患者の性格には,病理的な利己的心理がすぐに見て取れるようなpersonalityの偏奇を指摘することはできないように思う。患者は,率直で,洒落っけがなく,淡々と生活しているという風情の人柄であったり,多少凝り性だが生活を楽しむライフスタイルを持っていたり……と一定の傾向はなく,少なくとも,性格の病理のための不適応はなかった。自己中心的に見えるのは,診断者が暗に,うつ病患者は対他配慮性が強く,会社への忠誠心が強いという図式を人格判断の基準としてしまうからかもしれない。

受診の経緯についても,ぎりぎりまで頑張って過剰な適応努力をする「従来型うつ病」とは異なり,早々に退散したというような印象を受け,診断学的に症状が出そろわない段階で受診することが多い(不全型の発症)。訴えの中心は,「やる気がでない」「能率がさがってしまった」「疲れやすい」などの意欲減退であるが,ときに「腰が痛くて憂うつだ」「出社時に頭痛,吐き気,めまいがする」などの身体愁訴が加わる。抑うつ気分が訴えられないわけではないが,非常に憂うつそうなのではなく,現状を苦痛に感じてはいるか心中はむしろ当惑しているという印象がある。上司や同僚との衝突などをこれらの苦痛や困難が引き起こされた理由にあげることがあるが,しかし,発病以前には同種の困難をなんとか克服できていたという認識を持っている。この点で,発病という事態が不可解であると感じ困惑しているのである。

社会復帰については,早く復帰したがることの多い「従来型」と異なり,「現代型」はいつまでも復職時期を延ばしたり,復帰後の制限勤務の延長を求めたりすることが多い。復帰交渉の時,あるいは復帰時に決断して出社する際に,パニック発作様の症状が起こったり,会社の社屋の前まで行ってどうしても中に入ることができず帰ってくる,などの恐怖症的行動が出現することがある。このような恐怖症的行動自体は,従来型の遷延化例に見られたものと同質のものであるが,初発の病相に現れることが「現代型」の特徴である。

患者の自己同一性はむしろ仕事以外の領域で保たれており,提示症例のように長年にわたり趣味を続けていることがある。このことは,たとえ現実には会社人として職務をこなしていても,要請された役割アイデンティティを全面的には引き受けていないことを物語っている。この点も従来のうつ病理論とは異なるだろう。そして,この趣味領域での営み(提示症例のような純然とした趣味ではなく,たとえば20年間,土日は必ず1日中パチンコに行くなどの例もあった)は強迫的な反復性と持続を示す。患者はこの私的領域の反復的活動が創り出しているペースを自分本来のものとして,それを乱されることを嫌っているように見える。ただし,このような趣味領域の活動が同様の症例すべてに認められるわけではないのだが,その場合でも生活行動の中に気楽な過ごし方という領域を持っていて,その領域での活動を続けていることが多い。表2に,「現代型うつ病」と「従来型うつ病」とを比較した

表2現代型うつ病と従来型うつ病

現代型の特徴           従来型の特徴

①早期に受診→不全病型    完全に発病して受診

②選択的制止           全面的な制止

③自己中心的           対他配慮

④趣味を持つ           無趣味

⑤職場恐怖症的心理      遷延化例において見られる

Ⅲ 病態理解

1.逃避について:広瀬の「逃避型抑うつ」を参照して

「現代型うつ病」の病像は,制止主体の症状を示し,選択的制止があり,自己中心的に見え,恐怖症状を出すことがあるなど,多くの点でうつ病の病型研究として近年もっとも注目されてきた広瀬(1977)の「逃避型抑うつ」や松本(1990)が論じた中年層の逃避型抑うつに類似している。しかし,われわれは当初,これらの患者が「来るべき挫折が来てしまった」というような諦念を隠し持っているという印象を強く持ち,患者が疾病へ「逃避」しているとは思わなかった。また,趣味への逃避と見ることもできるが,趣味的活動は職場での苦境から逃避するために行われているというよりも,職場での苦境にも関わらずペースを変えることなく維持されているという印象をもった。

病態理解という点から見ると,「逃避型抑うつ」概念では,発症が「逃避的」に見えるのはヒステリー機制を含んだ甘えの病理によるという仮説が提示されているのに対し,「現代型うつ病」は恐怖症的心性によって病像が陰伏的に規定されている点に特徴があり,現代社会の一部に現れた局地的な心理傾向に関連するのではあるが,個人の性格の病理に依存するところは少ないように思う。

また一般に,「回避」や「逃避」の語を,症状構造を論じる理論語として用いるのと,現に患者の心理において働いている現象を記す観察語として用いるのとは次元(階梯)が異なることにも留意する必要がある。精神疾患の発症をストレス回避という意味で逃避だと構造的に解釈することは可能であるが,そのことと実際に患者に逃避の心理が見て取れることとは同一ではないのである。広瀬もこの点に対処しており,「逃避型抑うつ」における「逃避」に見える行動の実体は生体の反応としての擬死反射として理解できると論じている。これに対して,われわれは「現代型」の症状の性質と発症経緯は基本的に了解不能であることから,発病とストレスの間には「うつ病準備性」とでもいうべき素質的な身体性の病理が介在しており,この発症経緯は基本的に不可避な過程であると考えている。結局,われわれは現象の記述としても,症状構造上の仮説としてもこの病像を「逃避的」と言うことはできなかった。

2.恐怖症的心性について:レマネンツ恐怖

「現代型うつ病」に見られる恐怖症的心性は,すでに周知の(従来型うつ病の)遷延化例に見られる恐怖症状とほぼ同質のものと思われる。

(従来型うつ病の)遷延化例における恐怖症状は社会復帰に何度か挫折するうちに醸成されるものであって,患者は現実の職場状況を恐れているのではなく,職場に出社できなくなる際の,急かされ,追いつめられ,居所のなくなった状況(とそのときの自分の心理状態)についてのイメージを恐怖対象としている(元来,恐怖症とは具体的な対象というよりは対象のイメージヘの恐怖なのであろう)。つまり,遷延化例の恐怖症はいわば「前うつ状況」恐怖(インクルデンツ・レマネンツ恐怖)と言うことができる

とすると,「現代型」患者は初発病相の社会復帰の過程ですでに,遷延化例と類似した「前うつ状況」恐怖を抱いているのではないかという推論が可能である。

しかし,実際には,「前うつ状況」恐怖と言っても「従来型遷延例」と「現代型」とでは微妙に恐怖対象が異なるように思われる。「従来型うつ病」患者は秩序愛を行動面に明確かつ積極的に表わし,周囲から好ましいと評価されることによって会社組織に適応することに発病が準備されているのであった。秩序愛的行動によって過剰適応して発病する場合(「従来型I型」)でも,秩序愛的行動のために適応不全に陥って発病する場合(「従来型Ⅱ型」)でも,過剰な一体化に含まれている構造的矛盾が前うつ状況を招き寄せるのである(表3)。遷延化例に見られる恐怖は復職失敗を重ねる過程で,それまでの適応手段であった秩序愛的行動の適応性に信をおけなくなったところに,再三の復職という現実的課題に直面させられるために生じるものと思われる。この意味では,適応不全をきっかけに発病した従来型Ⅱ型の方が秩序愛の矛盾にある程度気づかされることになるので,その分,遷延化しやすいと言えるだろう。いずれにせよ,遷延化における恐怖は,秩序愛の矛盾がインクルデンツ的な挫折に至る道筋を(薄々とではあるが)意識したために生じるものなのである。

表3 従来型うつ病の二型

従来型I型:秩序的行動による過剰適応 Inkludenz-Remanenz的発病 秩序愛の矛盾に対して盲目

従来型Ⅱ型:秩序的行動の適応不全 Inkludenz的発病 発病後に秩序愛の矛盾に薄々気づく

現代型うつ病:秩序的行動を忌避 Remanenz恐怖による不全型発病 秩序愛の矛盾に気づいている

「現代型うつ病」患者はまさにこのインクルデンツ的挫折を予知しているかのように,緊密な会社組織へのコミットメントを忌避し回避しようとする対社会戦略を採っており,インクルデンツ的状況は回避できると考えている。

ところが,インクルデンツは秩序愛の空間的表現(「空間的」とは形として目に見えることと考えてよい。ここでは言動によって確認できる几帳面,律儀であることなどを指す)を抑制すればかろうじて回避できる可能性があるが,レマネンツは原理的に回避できない。このことが「現代型」にとっての深刻な脅威である。というのは,そもそも組織の中で役割を担って働く人間は,どのような働きぷりであろうと(几帳面であろうとなかろうと),職能の高まりに応じて割り当てられる仕事量が増えるという成り行きを拒否することはできないので,個人の能力と割り当てられる仕事量との臨界点がかならず到来するからである。「現代型うつ病」患者はこのレマネンツ的な臨界状況における疲弊を,社会に参入する当初から危険視しているのである。われわれはこの心理を「レマネンツ恐怖」と呼んだ(松浪ら,1998)。

留意しなければならないのは,「レマネンツ恐怖」という心理にはTellenbach(1974,0rig.1961)が「負債」という形で論じた倫理的性質があまり含まれていないという点である(実際,現代型うつ病では罪責感の表明が少ない)。これは端的に,患者が組織に一体化すること,組織の一員であることに価値を置いていないからであるが,「レマネンツ恐怖」が基本的には強迫的な機制によって成立しているので,「レマネンツ」に引き寄せられることはあっても,「レマネンツ」を恐れるがゆえに完全に「レマネンツ」に陥ることはないということも関与している。理論的には,次のように言うこともできる。そもそもレマネンツやインクルデンツはうつ病素質者が陥る自家撞着的運動における構造的矛盾を言い当てている(つまり,働けば働くほど遅れること,几帳面に働くために几帳面な仕事を完遂できないこと)のだが,この構造的矛盾には本来なんら倫理的性質は含まれていない。倫理的成分はメランコリー型性格の「几帳面さ」や「良心的」などの一見記述的な中立性を有するかに見える標識に密かに導き入れられている倫理性から由来するのである。言い換えれば,強迫性の空間的表現はこのような倫理的成分を含みこんでしまうのである。「現代型うつ病」は強迫性が外に形として現れることを忌避することによってこの倫理的意味合いを招き入れることを拒否しているのでインクルデンツに陥らないのであるし,レマネンツにおいて「負債」という倫理的責めが生じないのである。

IV 「現代型うつ病」と生活リズム

1.レマネンツ恐怖と生活リズム

「現代型うつ病」のレマネンツ恐怖の背景に確実に存在すると思われる忌避感は,「先端的なもの」「ペースを乱すもの」に向けられている。つまり,現代社会の多様性とめまぐるしい変化に向けられたものであり,これに自分のペースを乱されることを忌避ないし恐怖していると言えるだろう。われわれが「現代型うつ病」という変異型に見たうつ病の不変項とはこのような変化への忌避に関連している。

変化を忌避する心理は,「従来型うつ病」の患者にも確実に存在し,彼らの生活行動についての陳述に見え隠れしていた。たとえば,“今日も昨日と同じように過ぎでいくことが安心です”と述べる主婦や“つねに手順を確認して昨日と今日のできが違うなんてことのないようにします”と述べるパン屋を営む患者の陳述((従来型うつ病の例)を顧みれば,変化そのものが不安を惹起する心理がうかがえる(1991b)。

こうした変化の忌避,反復への依存あるいは反復愛好は強迫性の病理の動的,時間的側面であり,本来は「従来型」と「現代型」に共通に存在するはずである。しかし,「従来型」においては,強迫性のこの動的成分は,“几帳面”という静的な表現型によって空間化されてしまい見えづらくなっていたものと思われる。反対に,「現代型うつ病」では,うつ病患者の強迫性が,職場などの社会的・公的な領域においてあからさまに空間化されることが忌避されているため,職場外の私的領域の活動にその動的側面が(図らずも)露呈していると言うことができるだろう(「反復への依存」ということが含む「現代型」の依存の病理については,ここでは紙数を考慮して割愛する)。

このように見ると,「現代型」の患者に見られる(したがって,本来的には「うつ病患者」にも存在するはずの)生活行動の動的側面,とくに生活のリズム性が病理学的に重要な意味を持っているのではないかという視点が開けてくる。症例から導き出される限りにおいては,うつ病患者は職場や世間の多様に変化するリズムに翻弄されることを恐れ,私的生活におけるリズムに固執して自分の「ペース」を守っているとまずは言えるだろう。リズムを乱す因子が環境にあり患者は自分の固有のリズム性を保持しているという図式である。しかし,患者がこれほどまでに「マイペース」を固持する理由が環境からの多様な惑乱だけにあるとはとうてい思われない。むしろ,リズムの主要な惑乱因子は患者自身の側にあって,患者は自身の生活リズムの不安定性や被影響性を恐れており,趣味的領域における反復的な活動によってリズムを失うことをかろうじて防いでいるのではないだろうか。われわれはかつてこのような反復的活動を「硬化したリズム」と表現した(1991b;1998)が,「硬化した」リズムとは形容矛盾であって,これ自体はもはや「リズム」体験ではない。というのは,本来,「リズム」とは単純な反復ではなく,柔軟にゆっくりと変化していく躍動性を有しており,この躍動性が生む差異によって成立する意味体験だからである。したがって,「硬化したリズム」をもって営まれる趣味的行動は,リズムを喪失することから守られているという安らぎはあっても,それ自体が生み出す意味を持たない分,ある種の惰性的運動となる危険性を持っているのである。リズムの含む柔軟な揺れを快く感じるのでなく,この反復性に信を置く強迫性の心理こそ,「現代型」においてかすかに露呈した「うつ病」の病理の一側面であると思われる。

2.生活リズムとうつ病の病理

時間生物学や生理学の教えるところによると,人間の本能のデザインは生息のリズムという点においても自然と合致しておらず,人間をフリーランさせると24時間よりは長く(25時間という説がある)なる(Aschoff,1965)という

つまり,われわれは生理的には24時間+αの周期的な変化を営んでおり,地球の生活に馴化するためにはわれわれはみな,1日にα時間急がなければならない。この「ずれ」あるいは[遅れ]を解消するためには,光による脳内メラトニンの変化作用という生理学的なZeitgeber(同調因子)だけでは不十分であって,文化社会的なZeitgeberが不可欠である。われわれは朝起床してから夕刻就床するまで,三度の食事などの慣習的生活行動だけでなく,仕事に集中する時間と休息する時間の配分などのさまざまな個人的な行動様式によって,ともすれば遅れがちな内的時間感覚を修正し,1日のうちにαだけ時間を稼いでいるのである。

生活の実態に即して言えば,一般に,われわれは起床や就寝などの生理的リズムから,勤務の開始や終了などの社会的に設定されている制度的リズムに至るまで,外的に時間を区切られ,強いられた生活行動の切り替えの中で生活している。人間にとっての快適な生活リズムとはこれらの外的に与えられた生活行動の切り替えのタイミングを,いわば自分の習慣として内化し,自分が望んだものとして再規定することによって得られるものだと考えられる。この外的に強制されるリズム(というよりは反復性)を自分の習慣として捉え返す働きを担うのが個人の文化的Zeitgeberだと言うことができるだろう。

つまり,文化的Zeitgerberとは,外的な周期的「区切り」が有する無機的な反復性を人間の個人の行動様式の中に有機的に取り込むための慣習および個人的行動様式なのである。

うつ病の病理学にとっての問題はこれらの行動様式が個人の生きるスタイル,働くスタイルとして,個人のself-esteemを支えているという重要な価値を有するので,そのZeitgeberとしての機能的価値の方が認識されていないことである。うつ病の発病過程ではまさにこの個人のスタイルが喪失されるのだが,このことは,仕事上の失敗や対人関係における困難の中で自信を失い,self-esteemを低下させていくという心理学的文脈によってだけでは理解されない。

患者が自覚する個別的な失敗が起こる以前に,うつ病による生体のエネルギーや機能水準の低下によって,職業人・生活人としての自分なりの手順や流儀,つまり個人的な行動様式がしだいに維持されなくなるという生理学的事態が密かに進行し,このことが生み出すさまざまな小さな滞りや遅れが自信喪失を生むという生理-心理学的文脈も考慮されなければならない。そして,その個人の行動様式がZeitgeberとして機能していることを考慮すれば,この事態が生活リズムの失調に直接つながっていることは明白である。次々に外的に要請される時間的区切り(仕事の締め切りなど)から遅れがちになり,この「遅れ」を「挽回しようとして,できない」という焦燥感を伴った努力が続けられた後に,「体調」を崩すという形で事例化するうつ病は多い。このような観点から見れば,うつ病発症の素質は,外的リズムからの影響を受けやすく,またいったん被ったリズムの乱れすなわち遅れを解消して,自分の本来の生活リズムを取り戻す復元力か弱いこと(可塑性があること)にあるのではないかという推論も成立するだろう。

V 「現代型うつ病」の治療-うつ病のリズム論的治療論-

われわれは「現代型うつ病」という窓口を通してうつ病の病理を見直し,治療論に生かしていこうと考えている。現段階でわれわれが治療を行う際の基本的認識としているのは,①生活リズムという視点からすれば,うつ病素質者の病理の中心は(生活)リズムの可塑性である,②うつ病発病によるもっとも重大な損失は,個人の文化的様式すなわち生活人,職業人,趣味人としてのスタイルの喪失である,の2点である。

生活リズムという視点から見れば,うつ病の回復とは個々の生活行動がスムーズに営まれ,リズムを形成する要素となり,最終的には,患者固有の生活リズムが組織化されていくことである。入院治療を例にとると,患者は当初,病棟のタイムスケジュールやルールそして薬物療法などによって,いわば生理機能のレベルでの強制的リズムの中に置かれるのだが,病棟での生活行動に患者なりの趣向やスタイルが備わってくるにつれて,今度は,それらが睡眠や食事のあり方すなわち生理的レベルのリズム的規則性を再規定していくようになる。いわば生理的リズムと生活文化や様式によるリズムとの間の関係が逆転して,文化様式的リズムが生理的リズムを支配するようになる。これがうつ病の生活リズムという面での治癒過程である。そこで,この過程を促すための治療的アプローチを工夫していくことが課題となる。以下の治療法の工夫は別所ですでに論じた(1998)ことだが,簡単にまとめて解説する。

1.気分状態よりも体調を問題にする

うつ病発病直後の治療初期には,うつ病に陥ったことを認めて現実生活での挽回の努力を断念し,身体的心理的疲弊を解消することが基本となることは言うまでもない。しかし,従来のように,うつ病の治療全体を通じて「休養」を促し続けることは本来のリズムの回復のためにはむしろ不利であって,身体的休息がとれたら速やかにリズムの形成を治療目標に設定する方がよいと思われる。そこで,われわれは「休養」を「体を休める」ことに限定せず,疲弊状態を解消した後はむしろ病前の日常生活で日中行われていた「快適な」活動を(探し出して)推奨するようにしている。このことによって昼と夜,活動と休息のリズムの形成を促し「体調」の好転を期すのである。

われわれは一つひとつの生活行動がスムーズに,抵抗なく生活の一部として遂行される度合いを評価するために,「気分はどうですか」と聞くのでなく漠然と「体調はどうですか?」と尋ね,その次に個々の生活行動のどれが楽しめたか,スムーズに行えたかを聞くようにしている。とくに,「体調」という言葉で問う理由は第1に,うつ病からの回復時に,「気分状態が爽快である」と端的に気分状態に言及する患者は案外少なく,それよりも「体調がよくなった」という表現のほうが多少実感に近いのかもしれないこと,第2に,多かれ少なかれ強迫性の成分をもつうつ病患者に自分の気分状態をつまり自分の心理をチェックしようとする習慣を促さないですむこと,第3に,「体調」という言葉には,円滑な生活行動に含まれているリズム性,すなわち毎日の生活行動の反復性がリズムに乗っているように感じられることが含意されていること,第四に,生活行動レベルに含まれる快適な体験を発掘するきっかけとなること,などによる。

治療においては焦りの感情を生みだしがちな「遅れを取り戻そう」という意識を避け,「気持ちのいい活動を選び出して,それらが創り出すリズムで生活すること」に強調点を置く。そして,1日の中でそのような一連の活動がどの程度順調に継起的に生じているかを見る指標として「体調」を用いるわけである。

2.「小さな」楽しみを重要視する

一般に,うつ病患者にはなんらかの一領域に価値を限定し,その他の領域の価値を省みない傾向がある。つまり,人生を豊かにする,生き甲斐になる,人のためになるなどの大きな価値を追求し,多くは自分が行うべき責任を果たす活動に固執するあまり,その他の領域におけるもろもろの小さな価値には注目しない。そこで,治療的アドバイスとして,生きがいや充実を与えてくれるような大きな快楽を目指すのではないことを強調し,日常生活の中に織り込まれている「小さな快」に焦点をあてて,それらを享受できているかどうかに注目することを促す。

食事を例にとれば,朝食,昼食,夕食のそれぞれに違った様式,季節によって次々に移り変わる食材の季節感などに含まれている快に気づくように促すのである。このような「小さな快」は病前の患者さんの生活の中に含まれていたはずの快体験であるから,自分がどのような生活行動に楽しみを感じていたのかを改めて再確認してもらうのである。

3.その他の試行段階の治療的工夫

上述したように,われわれはみな自然の営みや社会的制度が要請するリズムから遅れているのであるが,うつ病素質者はこの「遅れ」を修正するのにより多くのエネルギーを要するものと思われる。彼らは常に社会のリズムに遅れ,リズムを喪失してしまう傾向が強い。「マイペース」は,社会的リズムとは一致しなくても,リズム自体を喪失してしまうことへの防衛となっている。したがって,われわれは,現段階では,彼らなりのペースをつかもうとする習慣的行動は,それがたとえ「硬化したリズム」であっても,基本的には容認する方がよいのではないかと考えている。しかし,この習慣的行動には反復-依存という依存の病理が関わっているので,ある程度の牽制が必要である。反復依存の色彩の濃い習慣的行動は本来的に無時間的な性質を有し,これはこれでリズムの喪失に至るからである。

また,発症年齢という点から見ると,マイベースを乱されても復元する力が十分に備わっている青年期には社会的リズムに合わせて生きることがかろうじて可能であったものが,次第にリズムの復元力が衰退して,うつ病を発症するのではないかという仮説も成立する。多くの職業人において,社会のリズムに遅れながら働いていても,ある程度の年齢に達し,そのような自分なりの働き方が周囲に許容されるようになれば,発病の危機を乗り越えて生活していくのであろう。いわば,私的リズムが社会的リズムに越境することがある程度許容されることで「遅れ」の解消という課題が不問に付されるのである。中年期以降の発病例では,患者の職場での個人的行動様式がある程度,周囲から容認されており,治療目標をこの個人的行動様式を取り戻すことに設定するのがよいと思われる。

しかし,「現代型うつ病」のように若くして発病した場合には,まだまだ働く個人的スタイルが周囲から容認されていないことが社会復帰にとっての大きな困難である。この意味で,社会復帰時には少なくとも制限勤務などの措置が必須となる。

おわりに

「現代型うつ病」は記述学的には制止主体が前景に立ち抑うつ気分が明瞭ではない病像であるが,このことは抑うつ気分が症状論的に二次的なものであることを意味しない。たしかに,制止症状によって日常のあらゆる行動が重い課題となってしまい,憂鬱になるというような反応性の成分をも抑うつ気分として採用するなら,二次的ということになるだろう。しかし,伝統的な精神医学における「生気性」(Schneider,1962,0rig.1946)という視点を参照すれば明らかなように,(生気的)制止と(生気的)悲哀感は本来一体のものである。とすると,「現代型うつ病」に見られる感情的成分は症状論的にどのように位置づけられるのであろうか。その手がかりは「生気性」概念に含まれている「身体性」の病理にあると思われる。治療論で触れたように,うつ病を一貫して「からだの病気」と捉えて症状を説明することには,それなりの説得力がある。われわれは「現代型うつ病」の病像を通じてうつ病の身体性について論じることが次の課題だと考えているが,本稿では論じられなかった。他日を期したい。

文献

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