臨床心理士採用模擬試験 うつとパーソナリティ 津田先生

問1
以下の文章で、筆者である津田先生は、「精神病理学は,神経症圏,人格障害圏でうつを示す人の全体像に対しては,未熟で依存的,葛藤が多く他責的という記述に終始する傾向にある.その点,精神分析的記述は,ときに高い迫真性をもって,この領域の患者のパーソナリティ構造を明るみに出している」と述べ、「ときに」有効と思われる、精神分析的記述も援用しながら、メランコリー型、依存型、回避型、soft bipolar などについて論じているが、その論述の中心は、メランコリー型を形成する2要素についての考察である。その2要素の抽出にあたっての方法論的問題、各性格タイプにおいて2要素がどのような様体で存在しているか、簡潔に述べよ。


問2
内因性うつと対象関係性うつの鑑別について要点を述べよ。


問3
筆者は「内因性うつ」の範囲を現時点でどのように考えたらよいと提案しているか、述べよ。

問4
文中、「うつ病患者の素質的基盤として推定される,私的自己の方が自己愛的に過剰備給される傾向と,メランコリ―型性格の基本的特徴である役割への過剰な同―化とのあいだには,矛盾がある.発病の後になって,この矛盾は徐々に炙り出されてくる.性格の殻が割れて,公的役割に自己を寄り添わせておくことが維持され得なくなれば,回避的傾向が前面に出てくる可能性がある.」と述べている部分について、臨床経験を例示しながら、具体的に説明せよ。


注:日本語になじんでいない人のために、末尾に Author’s abstract を付す。


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精神神経学雑誌 vol.107 12-2005 1268-1285頁
うつとパーソナリティ
津 田 均
Hitoshi Tsuda: Depression and Personality


うつとパーソナリティの関係は伝統的精神病理学がもっとも成果をあげた領域であるが,現状としては,典型的なメランコリー型を示さない内因性の症例への洞察が不十分である,神経症性,人格障害性のうつに対する類型的把握に薄いといった問題点がある.


メランコリ―型性格には,その精神病理学的構想の根本から2要素が含まれており,このことは実証的研究からも示唆される.第1の要素は,共生的関係の希求,両義性許容不能から成り,これにさらに,私的自己への過剰な自己愛備給を含めて考えることができる,第2の要素は,秩序性と,役割への過剰な同―化である.メランコリー型はこのふたつの要素の間の矛盾が覆われることによって成立しているのに対し,メランコリー型の辺縁に位置する性格類型では,この矛盾がすでに露呈していると考えられる.このような性格類型としては,依存型,回避型,soft bipolar typeが挙げられる.


この辺縁型の性格類型は,神経症的,人格障害的な様相を呈するが,本来の神経症圏,人格障害圏の抑うつは,さらにその外側に広がっていると考えられる.その中には,対象関係因性と呼ぶべき重要な―群が存在する.内因性の領域と対象関係因性の領域は,主体と社会との関係,両価性,身体症状の占める位置などの点で対比され得る.前者では,社会的要素は主体の周囲空間の背景を構成するに留まるのに対し,後者では,個人の対人葛藤は社会的要素と密接に絡まっている.前者の患者は現実に対する両価的感情を自己の内に保持することが困難で,同調性により現実に適応しているのに対し,後者の患者は,両価性の中での揺れ動きが閾値を超えて否定的方向に傾いたときに自己に打撃を蒙る.前者の領域では,身体の状態性と心理的事象が揮然―体となった場で症状が生じているのに対し,後者の領域では,象徴的理解を介して心理面から身体症状を理解することがある程度有効である.以上の対比は,治療方針を決定する上で臨床的意義を持つと考えられる.


<索引用語;うつ,パーソナリティ,内因性,神経症性,対象関係>
著者所属 名古屋大学学生相談総合センタ―,大学院医学系研究科精神健康医学,Student Counseling,Department of Psychopathology and Psychotherapy,Graduate School,Faculty of Medicine


Ⅰ はじめに


「うつ」と「パーソナリティ」の関係を探りながら精神医学の歴史を遡ることは,深く井戸を掘り進むことに似ている.それはときに迷路の様相を呈するが,けっして枯渇した井戸ではない.この領域では,現在,精神病理学及び精神分析学固有の研究発展と実証主義的パラダイムに基づく研究が,相補うとともにときに綱引きをしている.精神病理学的論考は,実証主義からの検証に耐え得るかという問題を抱えている.しかし,実証統計的研究にも,事象の理解における質と深さの次元を十分に考慮できないという問題点がある.統計的に呈示されるデータは,しばしば乾き切った地面の様相を呈ずる.歴史の井戸は,そこに解釈を与えて潤いを復旧させるだけではない.ときには,地面がすでにひび割れているのを整復する可能性を垣間見せる.


本論では,内因性の「うつ」から神経症圏,あるいは人格障害圏の「うつ」に渡る範囲において,そのパーソナリティを検討する.その際限定した範囲で実証統計的研究にも触れるが,それらはあくまで,精神病理学全体の流れの中で,それにひとつの方向性を与えるものとして取り扱うことにしたい.


Ⅱ 実証主義的方法に関連する2つの間題点


実際,「うつとパーソナリティ」に関する現在の研究の動向には,厳密な意味で実証主義的方法論に内在する問題とは言えないにしても,それと連動した問題点がいくつか現れてきている.はじめに,そのうちの2点に触れておきたい.


1.気分変調症を感情障害と括ることの問題


その1つは,気分変調症という,神経症性うつ病を引き継いだ診断カテゴリーの取り扱いの現状である.


このカテゴリーがDSM-IIIから採用された経緯については,すでに詳細な紹介もされている.要点を述べるならば,この変更をもたらした主な要因はふたつあり,そのひとつは,「神経症性うつ病(neurotic depression)」とひとくくりにされてきた群が,均質な群ではないという臨床観察であった.たとえばAkiskalらは,経過を追うことによって,この群が,単極性,双極性の感情障害の患者,人格障害,強迫性障害,摂食障害などが主な患者,身体疾患に付随する抑うつ状態の患考などから成り立っているとしている.今ひとつの大きな要因は,DSM全体から神経症概念を削除するという抜本的な変更であった.


ところが現在,この診断カテゴリ―について,しぼしぼ留保なしに,「感情障害である気分変調症」といった表現がなされる.このような言明は,このカテゴリーの成立のもととなった臨床観察と相容れるものではない.このことは,実証のために設定された規準が,概念と結びついて容易に―人歩きを始めることを示している.現実には,この診断力テゴリーは,そこにどのような異種の症例がはいりこんでいるかを不断に検討していかなければならないカテゴリ―であるはずである.


2.実証主義的パーソナリティ研究における時間的観点の欠落


もう1点取り上げたいのが,実証的なパーソナリティ研究の持つ問題点である.


一般にうつ病に関連した研究では,パーソナリティのほかに,気質(temperament)という概念も用いられる.この場合,概ね,気質は後天的影響の少ない特徴,パーソナリティは遺伝要因の上に環境要因が働いて出来上がった特徴と区別される.現在,気質,パーソナリティについての研究の中心は,記述的,現象学的研究から質問紙を使った研究に移行しているが,質問紙の構成自体は,Kraepelin,Tellenbachなどの伝統的な精神病理学的記述に負っているものが多い.現在汎用されているものでは,CloningerによるTCI(Temperament and Character Inventory)が,このような出自を持たないが,最近のTCIを用いた研究では,伝統的精神病理学との対比も意識されている.


しかし,質問紙がどのような構想に基づくにせよ,質問紙の結果はある時点で個人が自らを振り返った結果である.それにもかかわらず,通常の質問紙研究は,このことの持つ意味自体を考察せず,病前の性格を客観的に抽出しようとする.たとえば,retrospectiveに患者が病前性格を評価する研究では,評価時に残存している抑うつ症状の自己評価への影響を取り除くことが配慮され,さらにretrospectiveな研究であること自体が研究の限界であると付されるに留まる.


これは,実体として病前性格をとらえ,それを病因論,疫学,予防医学に生かそうとするかぎりにおいては,正しい態度であろう.しかしそもそも,人間の過去の意味は,つねに未来の側から新たに照らし出されて変わるものである.Freudの事後性(Nachtraeglichkeit,それをフランズ語圏でひきついだapres-coupといった概念は,その人の過去に位置するある側面が,事後的,retrospectiveにはじめて姿をあらわす,あるいは場合によっては書き換えられることを含意している.


もちろん,このような時間的観点を含んだ考え方は,おもに,神経症圏の症例の経験に基づいている.内因性のうつ病においては,それに罹患することが,「その後の人生に何らの帰結をもたらさないように見える」と言われることさえあり,過去と現在,未来との絡み合いはあまり重視されてはこなかった.しかし,明らかに内因性の特徴を持つうつ病患者の場合においても,過去の自己への評価を変化させる要因は,抑うつ症状による評価の歪みだけとは限らない.たとえば,うつ病の発病それ自体が,そのような変化のひとつの要因となるような場合がある.うつ病に罹患してから「自分の性格は実はこうだったのではないか」と述懐し始めるような人は存在しており,そのような内省のすべてが,病相が過ぎれば跡形もなく消えるわけではない.


このような内省は,何らかの自己不全感,葛藤を伴う病態を残存させる.それを,内因性のうつ病の「抑うつ神経症への移行」と考えるべきかどうかは,重要な争点である.ここでは,神経症圏の症例とは違った意味で,「発病によってはじめて明らかになる過去の自己の性格」とでも呼ぶべきものを,内因性のうつ病において考えてもよいのではないかということを述べておきたい.うつ病の精神病理学は,つねに,病前性格の検討と発病状況論が結びつきながら発展してきた.このとき,Kretschmerの「敏感関係妄想」の構想が引き継がれ,病前性格が―役買う形で発病誘因的な状況が構成されてしまうことが示されてきた.しかし,病前性格,発病状況論は,発病状況が構成されることによってはじめて明るみに出されるような「病前」の性格の弱点,特徴を発見してきたのだと考えてみることもできる.このような逆向きの時間的観点を含んで性格を考えることは,実体として「病前」性格を考えたり,図式的に,病前性格,病相中の性格,病後の性格を区別したりするのとは異なった臨床的意義があるはずである.


Ⅲ 伝統的な精神病理学の課題


それならば,伝統的な現象学的方法の成果が現在の臨床状況に対して十分なのであろうかと振り返ると,そうとは言えない側面がいくつか存在する.


1.現象学的精神病理学の神経症圏への手薄さ


まず,「神経症」よりの領域については,コンセンサスが得られるような範囲の特定が困難で,しかも類型的把握の成果に薄いことが指摘できよう.


たとえば,笠原,木村分類,あるいはその改訂は,この領域についても,簡明にして要を得た記述をわれわれに呈示している.しかし,ここ20年ほどのあいだに徐々に認知されつつある非定型うつ病(atypical depression),soft bipolar spectrumといった概念は,従来どちらかというとこの領域に属するとされてきた症例の中にも「内因性」の症例が存在していることを示唆しているものとも解釈できる.そのような考えをどこまで取り入れ,実践に生かすかは,これからの課題である.


さらに,精神病理学が,内因性の領域を考察の対象の中心としていて,内因性以外の領域の「うつ」にもともと手薄であったことは否めない.精神病理学は,神経症圏,人格障害圏でうつを示す人の全体像に対しては,未熟で依存的,葛藤が多く他責的という記述に終始する傾向にある.その点,精神分析的記述は,ときに高い迫真性をもって,この領域の患者のパーソナリティ構造を明るみに出している.ただし,精神分析の成果については,理論的には,ある学派の図式を,診断区分を考慮せず―般化して用いているのではないかという疑いが,臨床的には,精神療法的関係の続かない患者,身体的治療が中心となる患者を除外した狭い範囲の経験に基づいているのではないかという疑いがないわけではない.したがって,それを―般臨床に組み込むには何らかの工夫が必要であるように思われる.


2.メランコリー型の概念が通用する範囲の限定


―方,内因性の領域については,古典的精神病理学の精華であるところのメランコリ―型性格とその発病状況論の通用する範囲が限られてきているということがあげられよう.メランコリ―型性格が,共同体が協調と進歩という目標を共有することのできた時代に適応的であった性格であり,またそのような時代の産物なのではないかということは,しばしば指摘されてきた.メランコリー型が単極性うつ病患者に多く見られるということが実証研究の枠組みの中で証明され得るかということについても,否定的結果も混在して,結論は定まっていない.


しかし,仕事の領域に几帳面に熱中し,借りを作ることに落ち着いてはおられず,慣れ親しんだ空間,人々の中で安定しているような人が,仕事の負荷に応じきれなくなったとき,あるいは逆に,仕事の中にうまく巻き込まれて活動し続ける状態を維持できなくなったとき,さらには周囲との調和が板ばさみ状況や転居,転地などによって否応なく崩れたときにうつ病を発症し,生気的(vital)症状を呈するという図式の当てはまる症例は,現在でもよく見られる.Arieti,飯田などが,メランコリ―型,ないし類似の性格類型が時代精神からずれ始めていることを指摘して30年以上になるが,それは,減少しているかもしれないが,消滅してはいない.はるかに長い期間の歴史を振り返ってみることも有用であろう.秩序性がメランコリ―性格の基本標識であり,病相に陥る時点の前後からその秩序が維持され得なくなるというのがTellenbachの論述の示すところであるが,Lepeniesの著作を信じるならば,秩序の抗メランコリ―作用という主題は,ほぼ全ヨ―ロッパ史的に存在しているのである.


Tellenbach自身は,「メランコリー」と診断されてきて彼が対象とした患者全員に,メランコリー型の性格構造が見出されたと述べた.現在では,通常内因性のうつ病とされる患者のすべてがメランコリー型に属するとするには無理があると考え,他の類型を並列させて考える論述が―般的である.しかし,その場合,メランコリ―型以外の類型はまったくメランコリー型とは独立,無関係なのかという疑問が生じてくる.次に,われわれはまず,内因性の側から出発し,メランコリー型の内部を検討することにより,メランコリー型とメランコリー型の外部とをつなぐ通路が見えてくるのではないかという立場から,実証的研究と精神病理学的論述を検討してみたい.


IV メランコリ―型(Tellenbach)の内部と外部


1.メランコリー型を構成する2要素


メランコリー型についての実証的研究を振り返る場合,メランコリー型の性格傾向をとらえる目的を持ったいくつかの質問紙が,お互い微妙に異なっていることをおさえておく必要がある.現在おもに用いられるのは,ZerssenのF-list,同じくZerssenによって作られたミュンヘン性格検査(MPT)のうちの硬直性(rigidity)の項目,笠原による質問紙などである.仕事の領域における几帳面さ,徹底性といった項目はいずれにも共通しているが,MPTの硬直性は,その項目の多くが,かなり杓子定規な義務,計画,仕事中心主義の人という印象を与える表現になっている.笠原による質問紙は,対人関係での対決回避,他者評価への過敏さ,他人の要請を断るのが苦手といった項目が多く含まれているのが特徴である.


このように,それぞれの質問紙は,中核的特徴を共有してはいても,それぞれが,メランコリ―型性格の異なった側面に焦点を当てている.Kronmuellerらは,多種類の質問紙を用いた調査からこのことを明らかにして,さらにメランコリ―型性格自体の多面性に言及している.ここでは,Uekiらによる簡明な結論を参照したい.彼らは,臨床群と健常群への調査から,笠原のスケールについて,それが,対人関係の円滑さに関するものと社会規範に関するものとの2つの因子を中心とする多因子から構成されていることを示している.この調査は,同時に,うつ病群と健常群で有意差があったのは,対人関係の因子の方のみであったことを述べているが,硬直性のような社会規範的因子中心の項目も有意差を持つという報告も多いので,ここではこの点については立ち入らない.精神病理学的に興味深いのは,このような2因子が存在するという事実と,メランコリー型がその2因子を取りまとめたものであるとするならぼそのことにはどのような意味があるのかという問題である.


類似の2因子性は,実際,Tellenbachの議論にも,それを引き継いだKrausの議論にも,その根本から存在している.


たとえば,Tellenbachは,メランコリー型の人が共生的関係を結ぶ傾向について述べ,それをFreudの言う自己愛的対象選択に結びつけて,メランコリー型の特徴を持つ母親が同じ素質をもった娘を選び出してメランコリー型に養育し立てるというような,印象的な臨床記述に適用している.その―方で,彼は,日常生活における秩序正しさへの志向を,この性格類型の基本特徴としている.この2つの要素は,単純に一つに結ばれるようなものには見えない.それにもかかわらず,Tellenbachの記述では,共生的関係が,「近さ」へ向う対人関係の秩序という観点に含められて考えられていて,2要素がひとつに合わさっている.


同様のことは,Krausの著述についても指摘することができる.Mundtらは,内因性躁うつ病患者についてのKrausの議論の中心を,両義性許容不能と,過剰な規範性のもとに役割に他律的に同―化する傾向との2点に見ている.両義性許容不能は,感情面でも認知面でも,両義的な要素を同時に保持してそれに対処することが存在レベルで困難になっていることを指した概念である.このような存在様式をもった人がなぜ他律的に過剰な規範性の中に置かれることになるのかというのは,自明のことではない.したがってここでも,実は2つの要素がありながらそれらがひとつに結びつけられて議論が展開されていると考えられる.


このような2因子性は,メランコリー型が,共生的な関係を持とうとする傾向,あるいは振れのない感情,認知を持つ傾向を,規範的に価値づけられた成果を達成する努力を几帳面に行うことへ振り向ける仕組みが介在することによって形成されたということを示唆している.ここは,社会価値が家族を介して性格形成に影響を与える地点であり,この地点で生じていることについて信頼に足るモデルを呈示したのが,Cohenら,Arietiなどの対人関係学派であったと言えよう.彼らの議論とTellennbachの議論をふまえてこの仕組みについてまとめるならば,以下のようになる.前(躁)うつ病患者の親は,子どもの教育について,その義務の重荷に高い感受性と不安を持っている.そのような親は,社会規範に従った成果をあげる方向へ子どもが寄り添わないと愛情を撤収するというメッセージを出す.それは,特に自分と似ていて自分と共生的な関係を結ぶ素質のあるような子ビもを選んで行われる場合もある.子どもの資質もまた,彼らをして,この要請に正面からこたえて親からの承認を受けようとする方へ向わせる.こうして子どもは,愛情と自立の獲得は具体的な努カとその成果の達成という迂回路を経て得られるものであるというシェ―マを身につける.


2.メランコリー型とつながりを持つ辺縁型としての依存型


ここで問題となるのが,このような適応状態に葛藤を持たず,発病後もそこに戻っていく患考のみがメランコリー型であり,そうでない人は,それとはまったく別の類型なのかという点である.


確かに,メランコリー型の人は,通例,少なくとも発病までは,このような適応に疑問を抱かず,そのように形成された自分の性格の弱点にも目が向かない.社会の中で自立しているとは,彼らに日頃から課されている要請に「遅れをとらず」にいることであるという論理の内部にいるからである.熟達の精神分析家は,この適応状態の無理,彼らの病前からの不幸を指摘している.それをことさらに強調することが好ましいことであるかどうかはおくとして,患者自身が自己の病前の適応の余裕のなさと不自然さに盲目であったことは否定できない.しかし,この盲目さは,つねに発病後にまで引き継がれるとは限らない.また場合によっては,若年から,軽度の気分変調とともに,そのことへの葛藤がすでに表に出ていることもある.


そのような場合,自分は本当の自立や安定に何か欠けるところがあるようだというような内省があらわれることになる.それは,発病によってあらわれた自己についての知であると言えよう.また,共生的な関係の存在は,客観的な事実ではなく,患者の側にのみ幻想的に存在したに過ぎなかったと思われる場合も多い.これは,親との関係でもときに言えることであるが,配偶者との関係において認められやすい.うつ病患者が自分と同様の遺伝的素因をもった人に雰囲気的に惹かれて共生的関係を作り,配偶者とする傾向のあることが指摘されてきた.しかし,客観的には,むしろそれとは反対の気質の配偶者選択がしぼしばされている.それでも患者自身は,はじめのうちは,そのことに気づいていないことがある.彼らは,発病の頃からそのことに気づき始め,たじろいだり相手への不満を述べたりし始める.これは,発病がもたらす他者についての知であると言えよう.土居は,発病において患者が経験していることを,これまであると信じていた自己の充全感あるいは周囲との一体感ないし連帯感が失われたことと述べている.


そして,このような知が自己不全感とともにあらわれるならば,そこに,それを埋めるものが与えられてしかるべきであるという形で,他者へ向かう依存のあらわれる可能性がある.


実証的研究に戻ると,Mundtらは,通常の診察による性格と発病状況の把握に基づいたメランコリー型の診断を,質問紙の結果につき合わせるという研究を展開している.その結果,メランコリー型と言えるのはうつ病患者の半数程度であり,別の病因的性格も想定しなければならないとしている.Reckらはその候補として,特に依存的,anacliticな性格を考えている.対比的に述べれば,メランコリー型の人は,病相の明確な経過を示し,自立的な病前適応を示ずのに対して,後者の性格の人は,気分変調症からダブルデプレッションヘ至るような経過を示し,病前から依存的で,ときに依存を受け入れることを相手に強要するような適応不全を示す.後者は,飯田の言う「へばりつき型」にも対応しよう.


ただし,ここに述べてきたことからも導かれるように,両者が完全に独立であるとは考えられず,両者の間をつなぐ通路の存在が推定される.何人かの著者が,縦断的に,経過の中で1つの型から別の型へ姿を変える症例があることに言及している.横断面のみを評価する実証的研究にも,この通路の存在を示唆しているものがある.Kimuraらは,DSMの大うつ病の基準を満たす患者を,Zerssenらによる硬直性の指標と,Cloningerらの質問紙TCIにおける適応不全型の指標の2点から評価し,因子分析を行っている.硬直性をメランコリー型と等値するならぼ,それは,適応良好なメランコリ―型生格の一群と適応不全型性格の患者群のほかに,さらに両者の特徴を合わせ持つ一群があることを示している.


3.その他の2つの辺縁型—回避型とsoft bipolar


メランコリー型の外部に位置しながらメランコリー型と関連を持つ可能性のある辺縁型の性格特徴としては,依存的傾向以外に,さらに2つの,性格特徴に旨及する必要がある.ひとつは回避的,ないし逃避的傾向であり,もうひとつは躁的要素を混じた傾向である.


回避,逃避的傾向については,特に本邦では,広瀬の「逃避型抑うつ」によって必く注目されている.しかし,この型をどこに位置づけるかについては,衆目の一致を見ているとは言えない.広瀬自身はこれを内因性の系列の内部に置いているように読み取れるが,ヒステリ―機制の役割も強調されていて,事態は複雑である.これを性格因性の抑うつ反応と割り切る臨床家も少なくない.ここでは,回避,逃避的傾向に示唆を与える議論として,Matussekの構想に触れたい.


Matussekは,自己を公的自己と私的自己の2つの側面に分けて見るところから出発する.彼によれば,なるほどうつ病患者は,公的場面において役割を模範的に実行することに心をくだいている.しかし,長期にわたって精神療法的にかかわっていると,それが彼らのもっとも自然な関心というわけではなく,むしろ彼らにとって重要なのは私的自己の方であることが明らかになってくると言う.―見反対に見えるかもしれないが,統合失調症患者においては公的自己の方が過剰に自己愛備給されているのに対して,うつ病患者においては,私的自己の方がより強く自己愛的に備給されている(これは,Kranzがうつ病患者の自閉性を統合失調症患者が社会に開かれすぎていることと対比させたことに,呼応している).彼によれば,うつ病の基本型は疲弊うつ病である.しかもそれは,課された仕事の遂行による疲弊という以上に,公的役割をつねに高い水準でこなすことの方へ本来の自己の傾向にたえず無理を強いてきたことによる疲弊なのである.


この議論は,メランコリー型の内部には2つの因子があり,その間の矛盾が覆われずにあらわれてくると,メランコリー型とメランコリー型の外部にある性格特徴とのつながりが表に出てくるというここでの見方にも,対応する.うつ病患者の素質的基盤として推定される,私的自己の方が自己愛的に過剰備給される傾向と,メランコリ―型性格の基本的特徴である役割への過剰な同―化とのあいだには,矛盾がある.発病の後になって,この矛盾は徐々に炙り出されてくる.性格の殻が割れて,公的役割に自己を寄り添わせておくことが維持され得なくなれば,回避的傾向が前面に出てくる可能性がある.


もうひとつ触れておく必要があるのが,躁的要素の混入している性格である.共生的傾向にせよ,私的自己への過剰な自己愛備給にせよ,その傾向性がそのまま実現されようとすることと,患者の行動が秩序,規範の中へ限定されることの間には,解離がある.特に躁の要素がある場合,人格の内部で,この限定に抗する力が働き続けることになる.


躁の要素が混入した性格と症候の描出については,Akiskalらの貢献を無視できない.彼らの一連の研究には,いくつかの特徴がある.それらは,躁成分の存在する病態のうちでも,双極Ⅱ型や気分循環症に焦点を当てている(いわゆるsoft bipolar).そして,そこに見られる,不穏な要素,葛藤的要素の強い症状と性格面に注目している.特に,表面上「うつ」の方向を指し示していると思われる症状と性格傾向のいくつかを,経過研究から,実は双極性の徴候であるとして取り出してくる着眼点は,双極性概念の過剰拡大の危険がないとは言えないにせよ,他の研究者の追随を許さないものがある.彼らが双極性の徴候としてあげているものには,強迫性,心気的とらわれ,離人,恐怖症的不安,将来が暗黒に思えること,考えが駆けめぐってなかなか寝つけないこと,対人的に過敏であることなどが含まれている.


本論に引き寄せて見るならば,これらの症状,性格傾向は,拮抗する躁成分が同時に潜在していることを暗に示している.すなわち,心気的とらわれの背後には,身体が十全な活動状態にあることへの,離人,対人過敏の背後には,自己と自己身体,環境,周囲の人との間に滞りない循環が存在することへの強い要求があると推測される.この拮抗は,双極性に根源的に内在している不安定さと関わっている.メランコリー型の鎧は,このような不安定さを覆う可能性を持つ.しかし,躁成分がパーソナリティの形成にまで浸透しているとき,パーソナリティは,メランコリー型の秩序性の中には収束しがたいと考えられる.


以上の議論をまとめたのが表1と図1である.


表1 メランコリー型を形成する2要素と,メランコリー型と辺縁型との関係


1.メランコリー型を形成する2要素


第1要素  共生的関係の希求
     両義性許容不能
     私的自己への自己愛の過剰備給


第2要素  秩序性
     他律的な役割への過剰同―化


2.メランコリー型と辺縁型との関係
   メランコリ―型
        上の2要素間の矛盾が被覆されている
   辺縁型(依存型,回避型,soft bipolar)
        2要素間の矛盾が露呈している


図1 メランコリー型と3つの辺縁型



V 内因性のうつの領域と対象関係因性のうつの領域


1.メランコリー型の辺縁型はすでに,神経症性,人格障害性のうつか


以上の議論で,メランコリー型の辺縁にあってその外部にありながらメランコリー型の内部とつながりを持つと思われるパーソナリティ傾向3つを示した.ここでさらなる問が生じる.これらのパーソナリティ傾向を持つ人の抑うつが,すでに神経症性あるいは人格障害性の抑うつの領域でもあると考えるべきなのか,あるいは,ここまではやはり内因性の領域であると考えるべきなのかという問である.これは結局,内因性と,神経症性,あるいは人格障害性の定義の問題になってくるので,明確な解答があるわけではない.しかし本稿では,基本的にここまでは内因性の領域であると考えるべきであるという見解をとり,以下に,その根拠を示していくことにする.


そのために,簡単に本稿で採用する内因性,神経症性,人格障害性の定義を述べておこう.内因性のうつ病は,純粋に心理的な変化ではなく,身体と心理が揮然―体となったレベルに変化が生じる病態をさすものとする.神経症性と人格障害性のうつは,おもに心理的レベルに生じるうつである.抑圧された心理的内容が症状形成に関与しているものを神経症性,全体の人格構造が関与しているものを人格障害性とする.ただし,より日常的には,心理的葛藤が訴えられる状態が「神経症的」,人格の偏倚が目立つものが「人格障害的」と呼ぼれていることも考慮することにする.


本論に戻って,この3つのパーソナリティ傾向の人の抑うつでは,本人と周囲とのあいだに葛藤が多く生じ,それが本人自身にも意識される.また,彼らの生活様態の中にすでに適応不全的要素が含まれている.必ずしも結論の―致には至っていないが,この領域の抑うつはメランコリ―型性格の人の抑うつにくらべて遷延しやすいことを示した研究もある.そのような領域を「神経症的」,「人格障害的」領域と呼んでいけないとは言えないであろう.


しかし,この領域の症例にも中核的なうつ病の症候が出現するということは,確認しておかなければならない.さらに,これまでに見てきたように,パーソナリティという点でも,対極であるように見えて,この領域はメランコリー型の領域とつながっている面がある.したがって,ここまでが,辺縁型であるにせよ内因性の領域であるとしてもよいように思われる.この見方に立つならば,本当の神経症性,ないし人格障害性のうつの領域は,この領域のさらに外側に広がっていることになる.それならば,それはどのような種類のものであろうか.また,その領域の抑うつと内因性の領域の抑うつとのあいだには,症状とパーソナリティのレベルでどのような違いが存在しているであろうか.


2.内因性のうつと対象関係因性のうつ—パーソナリティによる鑑別の必要性


内因性の領域の外には,当然,さまざまな種類の適応不全,過大な負荷,外傷的出来事に伴う抑うつなど,膨大な種類のうつ状態が含まれる,その中で本稿で特に注目したいのが,対象関係の問題に起因するうつ状態と呼ぶべき―群が,神経症性ないし人格障害性のうつ状態とされているものの重要な部分を構成していて,それは,辺縁領域においてある程度重なりあっているにせよ,内因性のうつ病とは対比される領域を作っているのではないかという点である.


ここで対象関係因性ということで考えているのは,特定の種類の対象関係の問題に脆弱性を持つために,その問題が引き出される出来事に遭遇したときに抑うつが生じる人たちのことである.個々のパターンを列挙してこの領域を覆い尽くすことはできない.一部を例示するならぼ,自分に特別に期待を寄せる人,自分に特別に援助を求める人などの要請に,社会的役割という点でも個人的愛情という点でも応えることができるのかという問題が差し迫ったとき,自分が特に頼りにしていた人の否定的な側面,信頼のおけない側面が見え隠れし始めたとき,父親的立場の人から暴虐的に社会的責務を説かれ,それに抗することもできないがそれを受け容れることもできないとき,自分に特別な評価を与えてくれていた理想化された他者との関係が崩れたときなどに抑うつを生じる人たちである.ある関係性の内に置かれた人への両価性に彩られた感情と,自己価値,自己の社会的居場所などの問題とが,直接に絡み合うのが特徴である.


内因性のうつ病とこのようなタイプの抑うつは,症候の質とその出方において区別されるであろうととりあえずは予測される.対象関係因性の抑うつでは,症状発現への心理的要因の関与は,内因性の場合の状況因の関与にくらべて,より直接的と考えられる.それは,心因による比較的急激な悪化や改善をともないながら慢性的に経過するのが通常である.典型的な内因性のうつ病相のように,生気的症状,リズム性の障害といった症状が出揃って数力月単位で症状がなめらかに改善してくるというわけではない.


しかし現実には,症候とその出現様式のみから両者を区別することはそれほど容易ではない.内因性の辺縁群,特にsoft bipolarとされるような群の患者では,軽微な混合状態と呼ぶべき状態像が慢性的に続く.その際,日内変動とは別に,数日という単位の小刻みな波が出てきやすい.―方,対象関係因性群の患者においても,日常生活に生じる葛藤が根本の対象関係の問題を引きずり出すことにより,数日単位での変動が生じる.ささいな出来事のために―段不安定なパーソナリティの水準へ患者が陥るということが繰り返されるからである.患者は,この水準にある自分の状態を「うつ」と表現することが多く,しかも,きっかけとなる出来事と水準の移行との関係が意識されていないことが多い.したがって,結局自生的な抑うつへの変動が頻繁に生じているように報告されることになる.とりあえず操作的診断基準に従えば,両者とも気分変調症,気分循環症,ときに,双極Ⅱ型,大うつ病性障害に属することとなり,そこからの鑑別が重要になる.しかしその鑑別は,症候の吟味のみから簡単にできるとは限らない.


したがってパーソナリティの水準における鑑別ということも重要になる.理想類型として内因性のうつと対象関係因性のうつが存在するととりあえずは考え,症候の質とパーソナリティの特徴の両面からその2つを鑑別する指針を持ち,その結果を個別の症例の治療に生かすことが必要であると考えるのである.


その際ひとつの鋭敏な指標となるのは,精神分析的背景を持つ概念をもって患者に生じている事象に向うことが適切と判断されるかどうかという点にあると思われる.抑圧,否認,取り入れ,投影といった概念を駆使し,さまぎまな行動,症状に象徴的意味と同一の対象関係の反復を読みとる態度は,内因性の領域の患者の病理の中心に適合するとは思われない.これに対して,対象関係因性の患者を治療するにあたって,内因性の患者に対しておおよそは十分であるような,支持的空間の再構成,環境との時間的同調の回復に終始していたのでは,表層の事象に対処したのみで終わる.


このような鑑別は,実証的な検証可能性からかけ離れているという批判はあり得るであろう.感覚的,経験的要素に頼った鑑別だからである.精神分析的立場からの批判も予想される.精神分析は,学派による多様性は著しいにもかかわらず,自らの依って立つ基盤,理論,その帰結が診断区分を超えて連続的に成り立つと主張している点ではほぼ共通しているからである.


しかし,このような鑑別が治療上不可欠であるという指摘があることには触れておかなければならない.最近では,神田橋が,深層心理学的接近によって双極性の気分障害患者があたかも,慢性人格障害患者のようになる危険を指摘しており,そこから彼らを解放する術を論じている.このことは,先にも触れたように,この領域の患者が心理的葛藤と無縁でないどころかむしろそれに富んでいるだけに,重要である.―方で小川らは,深層の人格の病理に注目しないと治療の始まらない,慢性うつ状態について論じている.このことも,慢性うつ状態がより大量の抗うつ薬を使用すべきうつ病であるかあるいは抗うつ薬に反応しないうつ病であると評価されて終わる傾向のある現在,重要な指摘である.


統計的検証の困難についてはおくとしても,精神分析的立場からの批判については,それを考慮した議論をさらに進めておかなければならない.内因性の領域においても中心にあるのは対象関係の問題ではないかというもっともな反論が予想されるからである.内因性の領域にも,発病の頃に生じる幻想的―体感の喪失,秩序空間に対する依存とそこからの被圧迫感とのあいだの相克,他者に自らを譲り渡すかわりに自らの保護を要求するような依存といった問題は,存在している.


それでもなお,内因性の領域に自然に適合する論理と,神経症概念を引き継いで対象関係の問題として理解すべきうつ状態に適合する論理とが,ある程度異質であることは考慮しておく必要があるように思われる.この点を,自己と社会との関係性の様態の問題,両価性の問題,身体の状態の捉え方の問題の3点から,見ておきたい.


3.内因性のうつの論理と対象関係因性のうつの論理の対比


1)社会との関係性の様態からの対比


飯田らは,科学者の病跡学的研究から次の指摘をしている.躁うつ病圏の人は,自己と―体化し得る庇護的な空間に依存して葛藤から自己を保護している.Kretschmerは循環気質者の現実同調性を指摘したが,実際は,彼らは,「葛藤をはらむ現実の中での現実的生活者ではない」.このことのために,躁うつ病圏の科学者の生涯は,統合失調症圏の科学者と同様,「―つの運命が自己を貫徹してゆくという感じ,高潔で超俗的な外見」を与える.飯田らは,これに対し,神経症圏の科学者を論じるためには「社会的,科学史的状況論」が必になると述べている.この論点は,神経症圏の人においては,葛藤をはらんだ個人的問題が,社会歴史的問題との密接,現実的な絡み合いの中であらわれる傾向にあることを示唆していると考えてよいであろう.この傾向は,社会的要因が個人の周囲空間の背景を構成するに留まる躁うつ病患者の場合と対比をなしている.


以上の指摘は,主体と社会との関係の質を神経症圏を含んだ鑑別診断に導入する視点を提供している点で,重要と思われる.端的に述べるならぼ,対象関係因性の抑うつの場合,家族,本人の具体的,生々しい社会状況が病理に直接にかかわってくるのに対し,内因性のうつ病患者では,もう少し抽象化された水準で,たとえば家庭全体が社会歴史的状況を背景に超自我のあり方をどのように形成しているかというようなことが中心となる.統合失調症の人の自閉性,循環病圏の現実同調性という古典的対比に対しては,逆説的に,うつ病性の自閉が指摘されたり,統合失調症と「社会」的要素との近接性が指摘されたりもしている.そこにはさらに,神経症,ないしパーソナリティ障害圏における主体と社会との関係の,性質についての議論が付け加えられる必要がある.


2)両価性の観点からの対比


ところで,対人的葛藤について考える場合には,両価性の問題を避けて通ることはできない.そしてこの点でも,内因性の領域と神経症圏から人格障害圏の領域との間に,差異を指摘し得る.


これまでに少なからぬ古典的精神分析的議論が,「うつ」の患者における強い両価性を主張してきた.しかしこれがつねに内因性の患者の分析経験から得られた結論であるかどうかには,疑いがある.もし,自分の感情に常に相反する要素があらわれること,あるいは他者からのメッセージの中に常に相反する要素を受け取ることを両価性の特徴とするならば,内因性の患者には両価的パ―スペクティヴを保持する能力の欠如があると考えるべきかもしれないのである.―方で,対象関係因性のうつ状態を呈する人の場合,この能力は保持されているが,両価的感情,認知によってたえず揺れ動いている秤がある限界点を超えて否定的方向へ傾くと,自己が打撃を蒙ったり被害的傾向が出てきたりするということが生じているように思われる.


Krausは,内因性躁うつ病について,両義性許容不能の観点から,両価性に重きを置く分析的解釈に反対している.彼によれば,躁うつ病患者の感情,態度は,一義的であると同時に真正であって,自己全体と調和している.したがって,彼らの性質は,自らの内部に同時に相反する要素を抱えづらい性質である.


確かに,躁うつ病患者は,あるときにはある人間に対して攻撃的,否定的であり,別のときにはその逆であったりする.この変化は,躁うつの気分の変動と連動して生じることも多いが,それだけではない.その場その場の状況によってもこのような変化が生じる.彼らには,もともと理想的評価と否定的評価の両極に傾きやすいところがあり,それが同一の人物に向けられることもある.これらのことは,彼らに強い両価性を指摘する根拠となりがちである.しかし彼らは,そのときどきの感情,認知においては―つの統―体であり,彼らの感情,認知が黒白に分かれる傾向を,両価性そのもの,ないしはそれへの「防衛」と位置づけることが正当であるかどうかは疑わしい.これに対し,対象関係因性の抑うつ患者においてつねに問題になるのは,ある対象に対するひとつの感情,認知の背後に,同時にそれと相反する感情,認知が忍び寄る点である.彼らにおいては,そのことにともなう揺れがそのまま,自己評価の揺れにも繋がる.たとえばKleinの議論は,自己の攻撃性による対象の破壊,そのことへの罪責感,よい対象の内的保持といったプロセスのあいだの揺れ動きによって成り立っている.この揺れ動きの中で両価的感情の否定的側面が決定的に優勢になったときに生じるような抑うつは,内因性のものと性質を異にすると考えるべきではないだろうか.


両価性については,父親的存在が主体にとってどのような性質を持ったものとして現れるかという点から考えてみることもできる.内因性の患者において,良き父はモデルの位置にあり,患者にとって,そのモデルと自己との差は,不全感の原因であると同時に不断の努力のためのエネルギーの糧でもある.それゆえ,もはやモデルを持つことがなくなるほどの成功,あるいは自分が父になるような出来事(具体的には昇進など)は,彼らにとっての危機となる.これに対して,彼らにとっての悪しき父は,主体性を奪って彼らを閉塞的な空間の中に縛りつける権威の姿をとってあらわれる.この父の2側面を両価性概念のもとに包摂できるかは疑問である.―方Freudは,「お前は父のようであらねばならない」という勧告と同時に,「お前が父のようになることはゆるされない」という禁制があると述べている.このような父との関係は両価性の典型であると言ってよいであろう.対象関係因性の領域には,ある独立,成功の地点へと促されていながらその地点にさしかかるとブレーキがかかって前に進まなくなり,抑うつ的となるような患者が存在する.彼らにおいては,このような両価的な父との関係が働いている.


3)身体状態の位置づけからの対比


もう1点身体について触れておきたい.対象関係因性の領域では,身体状態への精神分析的見方にはそれなりの意義がある.たとえば,自己の中へ取り入れられた対象への攻撃性が心気症状としてあらわれるといった見方は,確かにひとつの解釈に過ぎない.しかし治療が進むにつれて,その解釈の妥当性が徐々に証明されたり,患、者の側にも受け入れられたりする場合がある.このような解釈は,身体症状と心理的働きとの関係において,心理から身体へという方向でなされており,さらにそこに,取り入れや投影の概念,象徴的解釈などが挿入されることによって成り立っている.


しかし,このような解釈は,内因性の領域の身体にあらわれる状態性(Befindlichkeit)の理解にまで敷衍すべきものではないであろう.内因性の領域に存在するのは,身体の停滞と精神的停滞とが渾然―体となった状態であり,Schneiderが生気的(vital)ということをうつ病の症状の特徴として強調したことは,やはり見逃し得ない.内因性の状態像の把握は,基本的には身体から心理へという向きでなされるべきであると思われる.


これは,内因性の領域では身体症状に心理的要因が無関係であるということではない.たとえば,双極性の要素を持つ患者において,彼らを閉塞的で自由度のない空間に置くことを強制するような要因は,心理的水準ですでに外傷的ですらあり,さらに,身体的水準で停滞をもたらしもする.しかしこのように理解することは,身体症状を心理的葛藤の象徴的表現として解釈するということではない.また,やはり特に内因性の病態では,対象との関係の変化に根ざした心理的要因が見出されることのない自生的な変化がしばしぼ見られるという事実は,おさえておく必要がある.Freudも,対象にかかわりのない純粋に自己愛的な自我障害が,毒素による直接的な作用のような形で起こって抑うつが生じることもあるのではないかと述べている.ここでは,現象の背後につねになんらかの心理的要因を探ることの限界が示唆されているものと思われる.


以上の点をまとめると表2のようになる.


表2 内因性の領域と対象関係因性の領域との対比


       内因性の領域     対象関係因性の領域


主体と社会  社会的要素は主体の  個人の対人葛藤が社
との関係   周囲空間の背景を構  会歴史的要素と密接
       成するに留まる.   に絡み会う.


両価性    両価性を保持しなが  両価的揺れ動きが閾
       ら現実に向うのでは  値を超えて否定的方
       なく同調性により適  向に振れたときに自
       応している.     己が打撃を蒙る.


身体症状,  身体の状態性と心理  象徴的理解を介して
身体の状態  的事象が揮然―体と  心理面から身体症状
性の理解   なった場所で症状が  を理解することがあ
       生じている.     る程度有効である.


4.Freudのメランコリー論に混在する2つの論理


以上のことに関連して,最後にもう―段歴史を遡り,このFreudの「喪とメランコリー」に触れておきたい.ここでは,そこから発する「うつ」の精神分析的パーソナリティ理論の発展を俯瞰することも,それへの少なからぬ異論全体を取り上げることもできない.また,精神分析的な議論の中には,Cohenら,Arieti,土居によるもののように,われわれが普通に内因性のうつ病,ないし躁うつ病として接しているものについて書かれていることが明瞭なものがある.一方,症例への言及から読み取られるかぎり,かなり心因性寄りの症例を扱っているとしか考えられないものも多い.「喪とメランコリ―」自体は,内因性の症例について言及しているように見えるが,必ずしもそうと言えない部分もある.このようなことについてもこれ以上触れることはできない.本稿で触れておきたいのは,「喪とメランコリー」において,内因性の範疇に適合する見方と対象関係論的な見方の両者が混じり合っていると思われる地点についてである.


Freudは次のことを論じている.まず,Freudによれば,うつ病患者においてはあらかじめ対象選択が自己愛的対象選択のもとに行われている.この対象を,患者は多くの場合,死別というような形ではなく,侮辱を受けたり失望を受けたりするという形で喪失する.そのとき生じることとして,ふたつのことが述べられている.ひとつは,対象喪失がそのまま自己の喪失になるということである.もうひとつは,対象への両価的感情が生じて自己は対象を攻撃,非難するのであるが,すでに対象は自己の中に取り入れられて,非難は,自己の中の別の審級である超自我からの自己非難という形であらわれるということである.たとえば,「自分に働きがない」というような女性患者の訴えは,実は,相手の側に働きがないことへの告訴だと主張されている.


このうち,自己愛的に選択された対象の喪失がそのまま自我の喪失になってしまうという点は,これまで内因性の病態の発病時に生じていることとして見てきたことに対応する.患者の内界において,患者は自己に似た他者,場合によっては自己の目標と一体となっていたのであるが,その状態は発病のときに崩れる.このことは,自己とは別の存在である他者の喪失,自己の可能性のうちのひとつに過ぎない目標の喪失とはならず,自己の喪失そのものとなる.それでも,そのような他者,目標と―体であったはずの自己がその状態を現在の自己に回復しようとする「執着」が働き続ける.これは,人間学的にとらえられたうつ病患者の特徴—同調的で勤勉な執着性を持つが,その実自閉的なところもあり,自己と世界,他者との関係よりも自己と自己との関係が優勢になりがちである—に対応する.


一方,両価性から取り入れへと進む議論は,そこに内因性うつ病論で避けて通ることのできない超自我の役割についての議論が組み込まれているにもかかわらず,むしろ対象関係因性の抑うつに生じていることを想起させる.これは,対象への攻撃性が内因性のうつ病患者にはないということではない.うつ病患者における攻撃性を否定する議論もあるが,本来与えられてしかるべきものが与えられていないというような「恨み」を伴う攻撃性はあると考えるべきであろう.内因性の患者に適合せず,むしろ対象関係因性の患者に適合すると思われる部分は,他者への非難が両価性を挺子の支点のようにして自己の非難へと変化する,自他混交の論理の質である.たとえばFreudは,(いまや非難を向けられているはずの)愛の対象の喪失を自ら招いたとする自責が生じるといった論を展開する.これが,相手をあくまで理想化していて対象が去ったのは自己の努力が足りなかったからだと感じているということならば,内因性の患者に生じがちなことであろう.しかしそうではなく,ここの議論は,面前の対象が十全な信頼を置ける対象でないことは,自己の悪,ないし攻撃性の帰結であり,そのような自己は非難されてしかるべきだという論理で推移しているように読める.これは対象関係因性の患者に生じがちな傾向である.


この2種類の論理,対象への攻撃性が跳ね返って自己自身の否定に至るという論理と,自己愛的対象を失うことによって自己そのものの喪失が生じるという論理は,その後のさまざまな精神分析的理論展開にも受け継がれている.たとえば比較的最近,Kristevaは,両価的な感情を向けられた対象の取り入れが引き起こすうつとは別種のものとして,いかようにも名づけようのない始原の対象である「もの」からわれわれがすでに引き離されているという原初的事実に対処しあぐねている,「自己愛的なうつ」の存在を想定している.このようなふたつの種類のうつの差は,精神分析の内部で考えられている以上に大きい可能性がある.「自己愛的なうつ」の特徴の方は,内因性のうつ病患者の病理にも重なってくると考えられるからである.


Ⅵ結語


現在,うつにおいて,内因性,非内因性の区別,パーソナリティと症候の関係などの論点が以前ほど省みられない傾向にあるとすれば,これは,治療関係に基づいて事象の全体像を現象学的に把握する方法から,操作的方法によって客観的に定式化された所見をとりまとめる方法へ,精神医学の方法の中心が変化したことによるところが大きいと言えよう.しかし歴史の井戸から現在の臨床に有効な構想を汲み出すならぼ,これらの論点は現在においても重要な論点であることが浮かびあがる。また,最近のいくつかの実証研究は,現象学的方法と相補的に働いて,これまでに得られた臨床的知見の確実性を高めている.


Depression and Personality
Hitoshi TSUDA
In the current research concerning the relation between depression and personality a
phenomenological, anthropological method and an empirical, statistical method coexist.
Each of these methods has its own limitations. The latter is abandoning the classical
endogenous-neurotic dichotomy without full considerations. It also tries to treat the personality as an objectively defined entity and it lacks insight into the fact that the “pre”-morbid personality is sometimes revealed “after” onset of the illness. Although the former has succeeded in establishing the concept of “Typus melancholicus,” which is still of a clinical significance today, it is not sufficiently well developed to deal with patients having endogenous symptoms who show other types of personality. It also lacks the profound description on the domain of neurotic depression or depression with personality disorder.
Typus melancholicus personality includes two components, not only as found in its original phenomenological arguments but also as suggested by the recent empirical research.The first component consists of the tendency to seek for a symbiotic relation with others and the intolerance of ambiguity. The excessive narcissistic cathexis to the “private self,” rather than the “official self” (Matussek), can also be included here. The second component consists of the “orderliness” and the “hypernomic” identification with role identities. Typus melancholicus is brought about only when these two components are integrated into one personal structure and the contradiction between them remains not overt. In contrast, it can be considered that in such marginal types as the dependent-anaclytic type, avoidant type and soft bipolar type, this contradiction is already overt.
Although these marginal types show neurotic or personality disorder-like manifestations,it can be considered that the authentic domain of neurotic depression and the depression of personality disorder spreads outside of these marginal types. In this domain the depression in which the problems of object relations play a dominant role is important.
It is worth taking into consideration the contrast between endogenous depression and depression associated with the problems of object relations When we decide therapeutic strategies. This contrast can be pointed out from the following three perspectives; the relation between subject and society, ambivalence, and the status of somatic symptoms.
In the former, social elements play a limited role, constituting only the background conditions of patients, while in the latter patients’ personal conflicts are closely intermingled with social elements. In the former the patients are almost unable to maintain ambivalent feelings so as to deal with reality and they rather adjust themselves to reality utilizing their syntonic personalities. The latter patients, on the other hand, have intense ambivalent feelings and are impacted VHen the negative side of the ambivalence predominates. In the former, pathological phenomena are located WLere somatic and psychological spheres are not yet divided, while in the latter metaphorical interpretations of somatic symptoms from the psychological contents are sometimes possible to a certain degree.(Author’s abstract)