意識の探求―神経科学からのアプローチ インタヴュー

意識の探求―神経科学からのアプローチ;岩波書店
クリストフ・コッホ (著), 土谷 尚嗣, 金井 良太(訳)


*この本の、最終章に収められた、架空の、自作自演のインタビュー。*部分はわたしのコメント。


二十章 インタヴュー


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「ねえねえ教えてよ。それってどういう意味?」とアリスは尋ねた。「君は賢そうだから教えてあげよう。」と、ハンプティーダンプティーはとても嬉しそうにいった。「どうしてもわからないこと、ってのはしょうがないんだ。その話題はもうたくさんだっていうことだよ。だから、君がこれからどうするつもりなのか話してくれてもいいし、ほら、残りの人生ずっとここにとどまっているつもりじゃないんだろう。 」「鏡の国のアリス」ルイス・キャロル(Lewis Carroll)


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結局、本書の主張とは何だったのだろうか。十九章をより分かりやすくするため、最終章では、架空のジャーナリストから受けたインタヴューという形式で、本書の趣旨をまとめてみたい。意識について考えていると、現在の我々の理解では答えるのが難しいが、興味深い数多くの問題に直面する。どうやって脳というシステムが意味を扱うことができるのか。動物に意識があるとすれば、動物実験は倫理的に許されるのか。我々に自由意志はあるのか。機械やロボットは最終的に意識を持つようになるのか、などなど疑問は尽きない。ここでは私の憶測を交えてこれらの疑問に答えていきたいと思う。


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ジャーナリスト:まず最初に、コッホ教授の採る、「意識の探求」への戦略を一言でお願いします。


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コッホ:第一に、私は、我々に意識があることは、否定しようのない事実であり、どうやって意識が脳から生じてくるのかを、我々は説明すべきだと考えています。主観、感覚、質感、クオリア、意識、現象としての経験、どんな言葉を使うかは自由ですが、そういうものを、我々は確実に事実として経験している。なんらかの脳の処理過程からこの意識は生じてくる。我々にはこういう意識的な経験があるから、人生が彩られたものになっているんです。大平洋へ沈む深い太陽の深い赤、バラの素晴らしい香り、犬が虐待されるのを見たときにこみ上げてくる激怒、スペースシャトル・チャレンジャー号が爆発したのを生中継のテレビで見たときの鮮明な記憶。こういった主観的な感覚が、どのようにして脳という物理的なシステムから生じてくるのかを説明するのが、現代科学の役割なんです。それができないようでは、科学のもたらす世界観なんて、本当に限られたものにすぎないでしょう。


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私の第二の主張は、哲学者が論じている難しい問題は取り敢えず、おいておこう、無視しよう、ってことなんです。特に難しいのは、何故、何かを見たり聞いたりすると、それぞれに特有の感覚を我々は感じるのかということなんです。自分がいつものように自分であると感じるのはどうしてなのか、非常に難しい問題ですね。そういうことに捕らわれ過ぎずに、ひとまず、科学的に取り組める問題に集中しましょう、といっているのです。意識が変化するのにつれてぴったりと活動を変化させるようなニューロン(神経細胞)、そういう意識と相関のあるニューロン(Neural Correlates of Consciousness)をNCCと私は呼んでいますが、そういうニューロン、もしくは意識と相関するような分子を明らかにすることに集中しよう、というのが戦略なんです。具体的に言うと、ある特定の意識的知覚を引き起こすために十分な最小限のニューロン集団の仕組みとは一体何かを明らかにすることを目標としています。最近の脳科学における技術の進展には目を見張るものがあります。哺乳類における遺伝子工学、サルの脳内から何百個ものニューロンを同時に記録する技術、生きた人の脳を輪切りにして画像化するイメージング技術。これらの技術を持ってすれば、NCCの探索は現実的な目標といえるでしょう。問題の定義もはっきりしているので、一貫して、科学的な成果が出せるはずです。


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ジャーナリスト:NCCが見つかれば、意識にまつわる謎は解決されるということですか?


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コッホ:いやいや、そんなに事は簡単ではない。なぜ、どんな状況において、ある種の非常に複雑な生命体が、主観を持って感覚を経験するようになるのか。なぜそれぞれの感覚には特有の感じられ方が決まっているのか。こういう問いに対しても、最終的に、原理的な説明ができるようにならなければ、意識の謎は解決されたことにはならないんです。人類は二千年間もこれらの謎を解こうとして、もがいてきたんです。実に「難しい」問題ですよ、これは。NCCが見つかったとしても、それは始まりにしか過ぎないでしょうね。謎を解くには程遠い。NCCの発見が意識の探求について果たす役割という意味では、DNAの発見と生命にまつわる謎との関係がもしかすると良い例になるかもしれません。DNAが二重螺旋構造を持っていることが解明されたことで、どれくらい遺伝の仕組み、すなわち、分子がどうやって複製コピーを作っているかが明らかになったか思い出してください。糖とリン酸、そしてアミノ基でできた二本の鎖が、弱い水素結合によって相補的な螺旋構造を持っていることが発見されるとすぐに、遺伝のメカニズムが提唱されました。遺伝情報はどう表現されているか、どう複製されるのか、そしてどう次の世代へと受け継がれていくのか、一気に遺伝の謎、生命の謎を解く鍵が示されたんです。遺伝のメカニズムは、DNA分子の構造を知らなかった、それ以前の世代の化学者や生物学者には、絶対に思いもつかなかったはずです。同じようなことが、意識の謎についても起きるかもしれません。ある特定の意識的知覚が、どの脳部位にあるニューロン集団によって生成されるのか、そのニューロン集団はどの部位へ出力を送って、どこから入力を受け取るのか、どんな発火パターンを示すのか、生後から成体になるまでの発達過程ではどうなっているのか。これらが分かれば、意識の完全な理論へとつながるブレイクスルーをもたらすかもしれません。


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ジャーナリスト:というのが、理想というか、夢ですよね。


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コッホ:たしかに現時点では夢かもしれません。だけど、NCCを探すよりも信頼のおける代替策はないんです。論理的に議論したり、自分自身の意識経験をじっと内省したりしても無駄でしょう。二百年前までは、科学実験が無かったので、学者達はそうやって意識の謎に取り組んできたわけですが、経験から言うと、そんな方法では意識の謎にはとうてい太刀打ちできない。頭の中で哲学者のようにごちゃごちゃ考えていたって、理屈で意識の謎が解けるわけがない。椅子に座って、じっくり考えて答えが出るほど、甘くない、脳はあまりにも複雑なんです。進化の過程で起きた、ものすごい回数起きたでたらめの出来事や偶発的な出来事を通じて、現在の複雑な脳が できあがってきたから、理屈が通用しない部分すらあるんです。むしろ今は、観察事実を積み上げることが必要でしょう。ニューロンから伸びる軸索の結合パターンはどれ程精密なのか。たくさんのニューロンが同時に発火することは意識が生じるのに重要なのか。皮質と視床の間を行き来しているフィードバック経路は、意識に重要なのか。NCCを構成するニューロンは特定の種類のニューロンなのか。こういう仮説が正しいかどうかを突き止めることの方がはるかに大事なんです。


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ジャーナリスト:なるほど。ということは、科学的に意識の理論を構築していく上で、哲学者に何か役割はあるのでしょうか?


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コッホ:歴史を振り返ってみると、哲学が、現実世界に関する疑問に対して、白黒はっきりつけたという、目覚しい結果は見られません。宇宙はどこからきてどうなって今まであるのか、生命はどうやって生まれたのか、精神はどんな性質を持っているのか、生まれが大事なのか、それとも育ちのほうが大事なのか。これらの問題になどに哲学が明確な答えを出した試しはない。ただ、哲学が問題解決には不向きだ、と声高に指摘するような失礼な学者は滅多にいないから、そういうことこの事実をめったに耳にすることがない。一方で、哲学者が問いを立てることに秀でているというのは確かでしょう。哲学者は科学者には思いつかないような視点でものを見ています。意識の問題には「難しい・ハード」なものと「簡単・イージー」なものとがあるという観念、現象としての意識とアクセス意識の区別、意識の「内容」と意識「そのもの」の識別、意識は何故統一されているのか、意識が生じるための条件とは何か、などは科学者がもっと考えるべき重要な問題です。まとめると、哲学者の投げかける問いには注目し、彼らの提示する答えにまどわされないようにするのが一番良いってことです。そのいい例が哲学者のいう「ゾンビ」でしょう。


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ジャーナリスト:「ゾンビ」って、腕をだらっとのばして歩き回る呪われた死人のことですか?


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コッホ:いや、ちょっと違う。見かけ上は、私やあなたと全く変わらないが、まったく意識がない架空の生き物のことを哲学者は「ゾンビ」と呼んでいるんです。チャルマーズがこの魂のないゾンビを議論に使って、今までに知られている宇宙の物理法則からは、意識がどうして生じるのかを説明できない、と主張している。物理学、生物学、心理学の知識は、主観的経験がこの宇宙にいかにして現われてくるのか理解するのに、これっぽっちも役に立たないという主張だ。何かそれ以上のものが必要だと。この奇怪な架空の生き物、ゾンビを使った哲学的な議論が、私には非常に役に立つ概念だとは思えない。しかし、哲学者のゾンビには程遠いが、それに似たような状況が現実にもあるんです。フランシスと私はこの取っ付きやすい用語を使って、一連の、それ自体は、意識にのぼらない素早いステレオタイプの感覚と運動の連合した行動を示すことにしました。古典的な代表例は、運動を制御することです。走りたいと思えば、何も考えず、ただ単に、[走る]だけでしょう? 体制感覚器とニューロンと筋骨格系があとはなんとかしてくれる。ただそれだけであなたはどんどん進んでいく。自分がどうやってそれぞれの筋肉をどう動かしているのか内省的に振り返ろうととしても、全く見当もつかないでしょう。このように一見単純な行動に潜んだ、驚くまでに複雑な計算と運動が直接意識にのぼることはない。


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ジャーナリスト: ではゾンビ行動というのは反射行動なのですね。ただし、より複雑な。


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コッホ:まさにそのとおり。大脳も含めた反射ということです。水の入ったグラスに手を伸ばす。そのとき、グラスを握るため手が自動的に開く。そういった行動は一種のゾンビ行動で、腕と手を制御するために視覚入力を必要とする。これらの行動は1日に何千回と行われている。もちろん、あなたはグラスを見ることができるが、それはまた別の神経系での神経活動が意識的に知覚されるからです。


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ジャーナリスト:ということは、健常者の中にも、無意識のゾンビ・システムと意識システムが共存しているということですか?


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コッホ:まさにそういうことです。毎日の行動のうち、大部分がゾンビ・システムによって制御されています。仕事にいく時の運転はまさに自動的だし、目を動かすのも、歯を磨くのも、靴ひもを結ぶのも、同僚に会ったときに挨拶するのも、その他の色んな日常生活における行動は、みんなゾンビ・システムがコントロールしているのです。ロッククライミング、ダンス、空手、テニスなどの複雑な行動でも、十分に訓練を積んだ後では、意識せずに、無心でやると一番うまくいく。どれか特定のひとつのアクションについて考え過ぎると、かえって滑らかな運動に干渉してしてうまくいかない。


*ゾンビ・システムは。原則として、これまでの知識で解釈できるわけです。神経細胞で構築できると思う。またたとえば、それと等価なものをコンピューターで構築することもできそうだ。つまりは、知覚→脳・処理→運動→知覚→以下ループ、という循環をつくればよいだけで、脳・処理の部分についても、ジャクソニスム的な原則を適用すれば、だいたいは説明がつくように思う。説明がつかないのが、「主観的体験」であり、「自意識」である。「自分は今経験している」と感覚すること、これがどのようにして生成されるのかが問題である。しかし手がかりがないわけではない。病気の中には、まさに、こうした、「主観的体験」「自意識」の部分が障害を受けるものがあり、そこでは、自意識の病理が展開される。完璧なモデルはまだないが、不完全な萌芽的モデルならば、提示できる。


ジャーナリスト:そんなにゾンビ・システムが効率的ならば、そもそも、なぜ意識なんて必要なのでしょうか?どうして私はゾンビではないのでしょうか?


*こういうことも思考の上では楽しいが、必要も何も、実際にあるのだと言いたい。


コッホ:どうしてあなたがゾンビでありえないのかについて、私には論理的な理由はわかりません。でも、全く感覚のない人生というのはそうとう退屈でしょうね。(そもそも、退屈という感覚さえもゾンビにはないのだろうけど。)しかし、この惑星の進化はちがう方向へ向かったわけです。非常に単純な生物がゾンビ・システムだけから成り立っているというのはあり得る話だ。だから、カタツムリや回虫にいたっては何も感じていないかもしれない。しかし哺乳類のように、様々な種類の感覚器からの膨大な入力を受け取り、そして複雑な行動を生み出すことのできる効果器を備えた動物にとっては、あらゆる可能な入力と出力の組み合わせそれぞれに対してゾンビ・システムを用意しておくというのはあまりにコストがかかる。脳が大きくなり過ぎてしまう。実際、進化の過程では、この問題は別の方法で対処した。予測していなかった出来事に対処したり、未来の計画を立てられる、ずっと強力で融通の効くシステムを作り上げた。NCCはある環境の選択された関心のある部分、すなわち、あなたがいま現時点で認識している物事を、コンパクトに表象し、この情報を脳における計画の段階にアクセスできるようにしている。このためには、なんらかの形で、数秒にわたるような即時記憶が必要とされる。コンピュータ用語では、現在の意識の内容というのはキャッシュメモリの状態に対応する。意識の流れが、視覚知覚、記憶、いま聞こえている声へと不規則に行き来するのにあわせて、そのキャッシュメモリの内容も変動する。


*「未来の計画」には疑問。
*「進化論的には、自意識は生存可能性を高めるはずだ」なんていう議論も、意識のメカニズムそのものには関係ないのだと思う。何故その方向に進化したかを説明はするだろうが、そんなことは、事実がわかってからでいいだろう。


ジャーナリスト:なるほど。意識の機能というのは、自動的な対応方法を用意するのが難しいような状況を扱うことだということですね。もっともらしく聞こえますが、なぜこれが主観的感覚を伴うことになるのでしょうか?


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コッホ:確かに難しい問題はそこだ。現時点では、なぜ神経活動が感覚を引き起こすのかを説明できる合理的な仮説はない。もっと正確に言うと、色々な提案はあるけれども、どれも納得がいくものではないし、広く支持されているものもない。しかし、フランシスと私は「意味」というものが決定的に重要な役割を果たしているのではないかと思っている。


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ジャーナリスト:言葉の「意味」ですか?


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コッホ:いや、言語的な意味ではない。私が感じたり、見たり、聞いたりする世界にある物体は意味のないシンボルではなく、豊富な連想を伴っている。磁器のカップの青の色合いは子供の頃の記憶を喚び起こす。そのカップを掴んだり、その中にお茶をそそいだりすることができるということを私は知っている。落としたら、粉々に壊れてしまうこと。これらの連想が明示的である必要はない。それらの連想は、生きてきた期間の経験を通じて行われてきた、外世界との数えきれないほど感覚̶運動の相互作用から成り立っている。こういった捉えどころのない「意味」は、磁器のコップを表象しているニューロンと、他の概念を表しているニューロンとの間の、入力と出力両方においての、シナプスの相互作用に対応している。このような膨大な量の情報が、コップを知覚する時の「質感クオリア」という形で、簡潔に記号化されている。これが我々の「経験」の正体なのです。この問題はさておき、実証されない推測ばかりで何百年も困難につきあたっていたこの分野で重要なことは、我々の枠組みが操作上の意識のテストを提供しているということだ。ゾンビ・エージェントは現時点の情報だけを扱うので、短期記憶を必要としない。例えば、差し伸べられた手をみて、自分の手を伸ばし握手をする。このとき、差し伸べられた手を見てから自分の手を伸ばすまでに、ちょっとした遅れを課されると、ゾンビ・エージェントはすでに役に立たなくなる。このような状況はゾンビ・エージェントの守備範囲外であって、こういう状況を扱うために進化してきたのは、より強力な(ただし作用するのに時間がかかる)意識システムなのだ。こういったゾンビ・システムにはできないが、意識システムにはできる行動を基にして、「意識テスト」とでも呼べるような、簡単な操作的なテストを考えられる。このテストは主観的経験を容易に伝えられない動物、赤ん坊、患者などに、意識があるかを試すことができる。つまり、直感的な行動を抑制した後に、数秒遅れて反応を起こすというような選択を動物にさせる。もし、その生物がそれほど学習を必要とせずにそうした非直感的な遅れた行動をとれることができれば、その動物は計画を立てるのに関連した機能が備わっていると考えられる。少なくとも人間においては、計画に関わる仕組みと意識とは密接に繋がっている。よって、その動物は何らかの意識を持っている可能性が高いと考えられる。逆に、NCCが破壊あるいは不活化されれば、数秒の遅れを跨ぐような行動をとることはできなくなるだろう。


*「正体」と言っているが、正体は何かわかっていない。
*「意識テスト」はおもしろそうだ。


ジャーナリスト:しかしこれでは、意識の厳格な定義とは言えないのではないでしょうか 。


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コッホ:まだゲームは始まったばかりだから、現時点で正式な定義を立てるには早すぎる。一九五〇年代のことを思い起こしてほしい。もし分子生物学者たちが「遺伝子」の正確な定義は何かとあれこれ悩んでいたら、ここまで分子生物学は進んだだろうか?現在でさえ、「遺伝子」を正確に定義するのはそれほど簡単ではない。我々の意識の遅れテストを、チューリングテストのようなものだと考えて欲しい。ただし、チューリングテストは「知性」があるかないかをテストするが、遅れテストは「意識」の有無を明らかにするという違いがある。科学において重要なのは、遅れテストが、夢遊病者、サル、マウス、ハエに応用できることだ。


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ジャーナリスト:ちょっと待って下さい。虫にも意識があるかもしれないってことですか?


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コッホ:意識が可能となるためには、自分自身を振り返るために、言語と自己の表象が必要だと考えている学者は多い。確かに、人間が自分自身について再帰的に考えることができるということに疑いの余地はないが、この機能は大昔に進化したより基礎的な生物システムに最後に付け加えられた機能に過ぎない。意識は非常に原始的な感覚と結びついている可能性がある。赤い色をみたり、痛みを感じたりする時に、言語だとか高度に発達した自己だとかいう観念が必要だろうか? 重度の自閉症の子供達やひどい自己妄想や離人症症候群を持った患者ですら、世界を見て、聞いて、嗅いでいる。これらの言語や自己の表象が著しく侵された人々も基礎的な知覚的意識は正常なのだ。


*そうですね。離人症の人も、忙しいときはそれなりにやっています。自省する瞬間があると、自分の感覚がおかしいと意識し始めて苦しいといいます。


言語を持った動物が進化の過程で現れてくる以前に、ある種の動物は意識を持っていた。私の研究対象の意識とは、そういう類の意識だが、となると、意識が進化のどの過程で生まれてきたのかが気になるところだ。さらに言えば、Ur‐NCC(NCCの原型)は、いつごろ地球上に現われたのだろう? 哺乳動物は、我々人類と進化上枝分かれしてからそう時間も経っていないし、脳の構造も我々のものと良く似ている。だから、サル、イヌ、ネコ、は少なくとも見たり、聞いたり、臭いを嗅ぐという我々と同じような経験・質感を持っていてもおかしくはないだろう。


*そうですね。


ジャーナリスト:マウスはどうでしょうか? 生物学や医学の研究で最も頻繁に使われている哺乳動物ですよね。


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コッホ:マウスを使うと、新しい遺伝子を挿入したり、既存の遺伝子をノックアウトするとなどという、ゲノムの操作が他の哺乳動物と比べると簡単なんです。だからマウスはモデル動物として非常に有用だ。マウスに遅れテストを実験的に適用することは実際可能なので、分子生物学の手法と組み合わせて、NCCの基礎を遺伝子操作を使って神経科学が研究するという強力なモデルになるだろう。私の研究室は他の研究室と共同で、古典的なパブロフの条件付けパラダイムを用いて、注意と「気づきアウェアネス」のマウス・モデルを開発しようとしている。


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ジャーナリスト:今、意識コンシャスネスの代わりに気づきアウェアネスとおっしゃいましたね。それらは別の概念なのですか?


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コッホ:いや、同じことです。慣習的にそういう実験では「気づきアウェアネス」と言うことになってるんです。意識(Consciousness)が、我々研究者の間では、「Cワード」と呼ばれることもあるように、研究者の中には強い嫌悪を示す人たちがいる。したがって、研究費を申請する時やや論文を投稿するときには別の言葉を使ったほうがいい。気づき(Awareness)という単語はそういうレーダーをたいていくぐり抜けるようだ。
動物の意識について続けましょう。意識がマウスで見つかるならば、そこで立ち止まる必要はない。哺乳動物で止まる必要すらない。大脳皮質が無ければ意識は生まれるはずは無いと、勝手に、大脳に対して狂信的である必要もない。大脳やその附随構造が知覚意識に必要だとは実証されていないんです。イカも意識を持っているんじゃないか?ハチはどうか? ハチは百万個ものニューロンをもっており、彼らは非常に複雑な行動を取ることが知られている。視覚的な刺激を覚えておいて、答えるというパターンマッチングをはじめ、色々なことができる。私が知る限り、数十万個のニューロンがあれば、見たり、嗅いだり、痛みを感じたりするのに十分かもしれない!ショウジョウバエすら意識を持っている可能性はある。恐らく、彼らの意識は非常に限られたものだろう。現時点では分かっていないだけの話だ。


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ジャーナリスト:これも検証できない推測のように私には思えますが。


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コッホ:現時点では、確かにそうです。しかし、操作的なテストによってこれらの推測を実験で確かめることができる。これは非常に新しいことなのです。我々はつい最近まで、そういう意識のリトマス紙、なんて考えもつかなかったのだ。


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ジャーナリスト:遅れテストは、機械が意識を持つかを確かめるのに応用できるのでしょうか?


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コッホ:私はカリフォルニア工科大学の生物学部の教授でもあり、応用科学工学部の教授でもあるから、もちろん人工意識についても考えている。神経生物学への類似から考えるに、遅れテストで試されるような能力を持った生命体(機械も含む)は、感覚を持っている可能性があると思う。そういう生命体は、本能的な行動を抑えて、なんらかの方法で記号の意味を表現できなければいけない。そういう意味で、一見、世界中のコンピューターを繋いでいるインターネットは非常に面白い例だ。ノードの役割をする無数のコンピュータが作り出す、分散型で、かつ、高度に相互連結したネットワークは、新らしいシステムといえる。インターネットには、多くのコンピュータ同士でファイルを交換プログラムや、千台以上のパソコンに分散させても解けないような数学的に厄介な問題を解決するアルゴリズムがあり、非常に複雑な行動を取っているかのように思える。ところが、このインターネットで繋がったパソコンの集合体と、大脳皮質中で互いに興奮・抑制をしあっているニューロンの連合との間には、ほとんど関係性が見られない。特に神経系と異なるのは、ワールド・ワイド・ウェブ(WWW)には、ある一つの、統一された目的を達成するための行動みたいなものが見られないことだ。今のところ、ソフトウェアに元々設計されていなかった、目的のある大規模な振る舞いが自発的に出現したということは起こっていない。そういう振る舞いが、自発的に現れてこない限り、インターネットの意識について話しても意味がない。今のところ、ネットワークコンピューターが、勝手に、電力量の割り当て制御や、飛行機の交通網の整理とか、金融市場の操作などを、作り手の意図とは独立に為された試しがない。ただし、自分の行動を完全に自分でコントロールするようなコンピューター・ウィルスやワームの類が出現すると、こういう現在の状況が未来永劫変わらないとは言えなくなってくる。


*「本能的な行動を抑えて、」別の行動をとることは、別段自意識がなくても、可能なことである。
*「なんらかの方法で記号の意味を表現できなければいけない」というが、このことも、本質的な要請ではない。


ジャーナリスト:反射のような行動をもったロボットに意識は宿ると思いますか?障害物を避けることができて、電池切れにならないように自分の電力をチェックし、必要になればどこかへ充電しにいく。そういう能力に加えて、汎用性を持った計画を立てるためのモジュールが備わったロボットには、意識があると言えると思いますか?


*結局「意識がある」という言葉の意味に還元される。


コッホ:そうですねえ。例えば、そのプラニング・モジュールが非常に強力だとしましょう。自分の身体のイメージ、そしてデータから検索された現在の状況に関する情報を含めて、ロボット自身の周囲の現在環境をセンサーを通して感覚的に表象が可能だとする。その結果、そのロボットが、単独で目的のある振る舞いを生成することができる。さらに、そのロボット、センサーからの情報を将来に生じる損益と結び付けて、自分の行動を律することができる、とここまで仮定しよう。そういうロボットは、例えば、部屋の温度が高くなってくれば、その状況が機械の供給電圧の低下を引き起こすかもしれないので、ロボットはなんとしてもその状況を避けなければならない、ということもわかっている。ここまでくると、「高温」というのはもう、単なる抽象的な数字ではなく、ロボットにとっては、安寧に密接に関わる重要な動機付けの要因と考えられる。そのようなロボットには、ひょっとしたら、あるレベルの原意識とでもいうものを持っているかもしれない。


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ジャーナリスト:なんだか、非常に原始的な「意味」とでも言うべきものに聞こえてきますね。


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コッホ: 確かにそうです。しかし、我々人間も、生まれて間もない時点では、恐らく、痛みとか喜びくらいしか意識できていないでしょう。しかし、「意味」には、こういった原始的なもの以外の起源がある。ロボットで言えば、プログラマーが「これは正しい、それは間違い」と教えることなしに、教師なしで学習するアルゴリズムで、知覚と運動をつなぐ表象を学んでいくところを想像してみてください。道を歩こうとして、つまずいたり、よろめいたりしながら、試行錯誤を通して、自分の行動が予測可能な結果に結びつくことを学んでいく。この時、同時進行で、より抽象的な表象も構築されていくだろう。例えば、視覚と聴覚からの入力を比べて、ある種の唇の動きが、特定の発音パターンと頻繁に入力されることが多いことなどを学んでいく。ここでは、「表象が明示的で、はっきりしたものになるのにつれて、その表象によって表される概念がより高度に意図的になっていく」ということが重要だ。ロボットをデザインしている研究者が、もし人間の幼年期の発育過程と同じような過程をたどるロボットを造ることができれば、こういう「意味」というものをより深く研究していくのも可能になるかもしれない。


*人間の発達を考えれば一番分かり易い。精子と卵子から始まって、成人になるまで、どこかで段差があるわけではないのだ。連続しているはずだ。したがって、ニューロンネットワークで説明できるはずだ。


ジャーナリスト:まるで、映画「2001年宇宙の旅」にでてくる偏執病のコンピュータHALの世界ですね!でも、ロボットが「意味」を持つかどうかについてはわかりましたが、まだ私の最初の質問、ロボットの意識に対して答えてもらっていません。コッホ教授が提唱する遅れテストは、意識を持った「ふり」をしているだけのロボットと、本当に意識を持った機械を区別できるのでしょうか


*できないと思う。「意識を持ったふりができる」ということは、意識を持っているということだと私はおもう。日本語がわかるふりができる犬は、結局、日本語がわかっているのだと私は思う。その場合も、「日本語がわかるとはどういうことか」というところに問題は還元されるようだ。
*今日、出そうなパチンコ台を、どう考えても非合理的としか思えない方法で判断しているおばあちゃんの場合、結果として、あてているという「相関」があれば、それは尊重するしかない。因果関係として認定するのは早いとしても。(これは適切でないたとえかもしれない。)


コッホ:遅れテストが生物の意識システムと反射システムを区別するからといって、同じことがロボットにもあてはまるとは限らない。「我々人間には意識がある。よって、人間に似ている動物ほど、感覚を持っている可能性は高い」という議論に基づいて、進化過程、行動パターン、脳構造などがどれだけ人類と類似しているかを考慮して、ある程度の動物種は感覚を持っていると仮定するのは納得がいくでしょう。けれども、デザインや歴史的な起源、形に至るまでが根本的に異なるロボットについては、そういう議論を前提に意識を考えることはできない。


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ジャーナリスト:それでは、この話題はひとまずおいておいて、もう一度、これまでに発展させてきたクリック&コッホの視覚意識に相関する神経活動(NCC)仮説についての考えをお聞せ下さい。それはどのような仮説だったのでしょうか?


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コッホ:一九九〇年に、我々は意識についての初めて最初の論文を発表しました。その論文では、複数の脳部位における神経活動の動的な「結び付け」が、ある種の視覚意識には必要だ、と強く主張した。


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ジャーナリスト:ちょっとまって下さい。「結び付け」とは何のことですか?


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コッホ: 赤いフェラーリがそばを過ぎ去っていく場面を想像して下さい。フェラーリは脳の全体にわたる無数の場所で神経活動を引き起こす。活動は色々な場所で起きるにもかかわらず、あなたが意識するのは、単一の知覚だ。自動車の形をした赤い物体が、ある方角に向かって、激しい音を立てて走り抜けていく。この統合された知覚は、運動をコードしているニューロンの活動、赤を表わすニューロンの活動、あるいは形や音や他のものを表わすニューロンの活動、これらをなんらかの方法で「結び付け」た結果、生じるものだ。もう一つの結び付け問題は、フェラーリの傍に犬を散歩させている人がいる場合に生じる。その犬を散歩させている人は、フェラーリと混同されないように、脳内に表現されて、別々に結び付けられなければならない。


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我々の一九九〇年の論文発表時には、ヴォルフ・ジンガーとラインハート・エックホルン、それぞれが率いる二つのドイツのグループが、猫の視覚皮質のニューロンがある条件下で、それらの発火パターンを同期させるということを発見した。この同期発火は周期的に起こるため、有名な四十ヘルツの振動につながる。私たちは、この四十ヘルツの振動こそが、意識が起きたことを示すニューロンの「目印」みたいなものだと主張したんです。


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ジャーナリスト: ニューロンの同期と四十ヘルツの振動については、現時点ではコッホ教授はどのように考えているんでしょうか?その後、どんな証拠が得られましたか?


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コッホ:神経科学界の間では、振動と同期についての見解は、当時も今も、激しく対立し、深い分裂がみられています。ある科学論文雑誌で振動や同期には機能があって、それが意識に関連しているという仮説を支持する証拠が公表されたかと思うと、同じ雑誌のすぐ次の号では、その内容を元も子もないほどに笑い者にするような論文が発表される。しかし、信頼できる証拠が全く無い低温核融合とは違って、ニューロンが二十ヘルツから七十ヘルツの周期で振動する活動すること、そしてニューロンは同期して発火すること、これらの神経活動現象が「存在する」ことに関しては疑いの余地が無い。それでも、異論反論の尽きない問題は数多く残っている。今のところ、我々の解釈では、同期発火や振動には、ニューロン連合を形作るのを助けるという機能があるようだ。ある知覚を表現するニューロン連合が、他のニューロン連合との競合が起こったときに、優位になるように同期・振動が助けているようだ。こういう仕組みは、注意のバイアスをかけているような時に、特に重要かもしれない。しかし、四十ヘルツの振動が意識が生じるのに「必要」だ、とは現在ではもう信じていはいない。


*このあたりのことを我慢強く提案し続けることが大切だとおもう。
*重要なのは、この関係での、測定方法だとおもう。昔の人が電流計を知らなかったように、私たちもまだ、大切な何かの測定法を知らないのだろうと、漠然と思う。しかしそれは電流や磁気と同じように、現世の物理学に属するものであり、超越的な何かでは全くないだろう。


このように、理論に流行り廃りがあって、我々の知識が不安定なのは、精神の基礎となっているニューロンのネットワークを研究するための既存の道具が力不足だからだ。大脳には何百億もの細胞があるのに、現在の最先端技術の電気生理学の技術をもってしても、せいぜい数百個のニューロンから発火を記録するのがせいいっぱいなのだ。つまり、一億個に一個の割合だ。一万から十万個のニューロンの活動を同時に記録できるようにならなければ、本当に大きな成果を得るのは難しい。


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ジャーナリスト:何百億個もニューロンが大脳にあるのであるば、たとえNCCがあるニューロン連合の活動に基づくとしても、かなりたくさんのニューロンの活動を記録しなれば、NCCを見過ごしてしまいますね。


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コッホ: まさにそのとおり。現在のニューロン記録技術で科学者がやろうとしているのは、適当に選んだ二、三人の人たちの日常会話を基にして、次回の大統領選挙の結果を占おう、というのに近いでしょう。


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ジャーナリスト: なるほど、もっともです。では、最初に十九九〇年の論文を発表した後は、クリック&コッホはどのような仮説を提唱してきたのでしょうか。


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コッホ: 次に我々は、意識の機能に注目した論文を一九九五年に発表しました。様々な状況に応じた対処を素早く行なえるように、将来の計画を立てるようにするというのが、意識の主な機能であろう、と我々は仮定した。この仮定自体は、他の思想家たちがすでに提案してきた仮説に比べて目新しいものではなかった。我々はこの議論をもう一歩押し進めて、この仮定と神経解剖構造からどんな結論が導かれるか、について考えた。脳の中の行動計画に関わる部位は前頭葉に位置するので、NCCは前頭葉に直接にアクセスできなければならない。一方で、サルの脳では、頭の後ろに位置する第一次視覚野(V1)内のニューロンは、脳の前部へ出力を全く送っていないということがわかっていたのです。したがって、我々は、V1ニューロンは直接に視覚的な意識を生み出すのには不十分であり、視覚意識はより高次の視覚野で引き起こされていると結論付けた。


*意識の機能として、「自分の内部状態をモニターして、その延長として、他人の内部状態を推定し、他人とかかわるときに、有利な結果を引き出せるようにする」という考えがある。悲しくて誰かに慰めてほしい場面だと思ったら、慰めてあげる、そうすれば友達になれる、まあ、そんな話。自己の内部モニターが壊れている人がいて、そうすると、他人のこともうまく解釈できなくて、人間関係を滑らかにできなくなってしまう。先天的に視力の弱い人がいるように、先天的に自己モニターが不正確な人はいるもので、それがある種の性格の基盤になるだろうと思う。


コッホ:ここで注意して欲しいのは、我々は無傷のV1は視覚意識に不必要だ、と言っているわけではないということだ。ちょうど眼の網膜にあるニューロンの発火活動が視覚的な知覚に相当しないように、V1の活動も意識の内容に直接相当するわけではない。もしも、網膜の活動と視覚が一致するんだったら、盲点に相当する場所(視神経が集まって眼球から外へ出る所にある、光受容体が全く存在しないところ)には、灰色の穴がぽっかりと開いたようにいつも見えるはずでしょう。つまり、網膜も大脳皮質の一部であるV1も、見るのに必要だが不十分だということです。V1は、目を閉じた時に想像する具体的な視覚イメージとか、鮮明に感じる視覚的な夢を見るのにも不必要かもしれない。


*


ジャーナリスト: どうしてそんなにV1こだわるんですか。NCCがV1に無かったということがわかったとしても、そんなに重要な発見でしょうか?


*まあね。


コッホ: 仮に我々の仮説が正しくて本当にV1にNCCは無いならば、わずかではあるけれども、着実に意識の探求へと向けてにステップを進めていることになるでしょう。特に、最近出てきている証拠は我々の仮説を支持するものが多いようです。そういう結果は、特に科学者にとっては、とても励みになるものだと思う。正しい方法で科学的にアプローチすれば、意識の物質的基礎を発見する、というゴールに向かって進展が得られることを実証するからだ。我々の仮説はさらに、皮質での活動がすべて意識に昇るとは限らないということも含んでいる。


*


ジャーナリスト:それでは、広大な大脳皮質のどの部位に、NCCがあると思いますか?


*


コッホ:腹側経路、すなわち、「知覚のための視覚」を司っているこの経路のどこかに視覚意識のNCCはあるだろうと考えています。さらに言うと、下側頭葉の中やその周りのニューロンがつくるニューロン連合が非常に大事だろう。この連合は、帯状回や前頭葉のニューロンからのフィードバック活動によって活動が維持されている。このフィードバックによる反響的リヴァーブレイトリーな活動によって、競合相手の活動を抑えて優勢になることができる。こういう連合同士の競合の様子は、EEGや機能イメージングを使って観測可能だ。今までは謎の多かったこれらの脳の領域の研究は、電気生理学によってどんどん、日進月歩で進んでいる。中でも特にパワフルな戦略は、「錯視」を使った研究だ。ある錯視では、見せる映像に対して生じる知覚が、一対一の関係にならないことがある。入力映像はずっとコンピューター画面の上に出ているのに、ある時はその刺激がある風に見えて、また別の時にはそうは見えない、そういう錯視がある。ネッカーの立方体はこのパラダイムの良い例だ。そういう双安定バイステイブルの知覚は、前脳部に見つかっている色々なタイプのニューロンの中から、「意識の足跡」を追跡するために使われている。


*実際自分で経験してみると、不思議である。前に紹介した、右回りと左回りのダンサー。


ジャーナリスト:どうして、大脳皮質の後ろの方の知覚エリアと、計画・思考・推論を司る大脳の前部との間での反響的なループが重要なのでしょうか?


*


コッホ:私がまさに先ほど述べたように、生物にとって、意識が重要なのは、それが計画・思考・推論と深く関わっているからでしょう。生命を危機に晒すような事が起きると、それに伴って様々な今まで経験したことの無いような状況に立ち向かわなければならない。そういう状況で、 無意識の知覚運動ゾンビ・システムだけでは対処しきれないだろう。今まで経験したことの無いような状況に対処することが、意識の重要な役割なのです。頭の中に小人(ホムンクルス)がいて、その本当の「私」が世界を見ているという感覚をつくり出しているのは、おそらく、前頭前野と知覚皮質との間の投射が原因でしょう。脳の前部に座っている小人が後部の脳を見ていると考えることができる。解剖学的な用語で言えば、前部帯状回、前頭前野、前運動皮質が、後脳部からの強い駆動型のシナプス入力を受けているということだ


*これは印象を良く説明していると思う。


ジャーナリスト: でも、脳の前部にホムンクルスがいるとすると、今度は誰がホムンクルスの頭の内部にいるのでしょうか?無限ループに陥ってしまって、説明にならないのではないでしょうか?


*これが古典的な指摘。


コッホ:ホムンクルス自体が無意識ならば、もしくは、我々の意識が持っている機能よりも限られた機能しかもたないと考えれば、無限ループには陥らずにすむ 。


*そうかな?


ジャーナリスト:ホムンクルスが自由意志を持って、我々の意志とは独立に行動を起こすことはできるのでしょうか?


*


コッホ: 自由意志について語るときには、自分には自由意志がある、と知覚することと、意志の力とをはっきり区別することが重要だ。例えば、ほら、私はこうやって手を上げることができでしょう。それに、私は「私」がこの行動を自発的に起こしたと確信できる。誰かが私にそうしろといったのでもないし、また、数秒前にまで、私はこんなことを考えてもいなかった。自分の体などを自分で制御しているという感覚、自分が自分を一身に引き受けているという行動の主体とも言うべき感覚は、生存にとって極めて重要だ。脳がそれぞれの行動を自分が起こした、とラベルを貼って区別するのを可能にする。(もちろん、この主体知覚にはそれ自身のNCCがあるだろう。) 神経心理学者ダニエル・ウェグナーが指摘するように、「私は行動を引き起こすことができる」というのはある種の楽観論だ。そう考えることによって、悲観論者が試みもしないようなことを、我々は確信と熱意をもって成し遂げることができる。


*自由意志もまた大問題。


ジャーナリスト: でも、あなたが手を挙げたとき、それは事前に起きた事から必然として起きたことなのでしょうか? それとも、あるいは自由意志によって起こされたのでしょうか?


*


コッホ: あなたの質問を言い換えると、「物理法則は、形而上の意味において『自由な』意志が働く余地を残しているか」ということですね。誰しもがこの昔から議論されてきた問題に関する意見を持っている。しかし、一般に認められている答えはない。ただ、私は、個人の行動とその意図が解離しているという実例が多くあることも知っている。自分の人生でそういう矛盾した行動と意志の例を探し出すことができるでしょう。例えば、岩棚の上に「登ろう」と思っていても、身体が脅えてついてこないとか。あるいは山の中を走っていて、精神的にはくたびれているが、脚が勝手に走り続けてしまったりとか。催眠術、心霊術、自動筆記、パソコンを使ったコミュニケーション法(ファシリテイティッド・コミュニケーション、FC法)、憑依現象、群衆の中にいる時に感じる没個性化、臨床における解離性同一性障害などは、行動と意志経験の間の解離の極端な例だ。結局、私が手を上げるのが本当に自由なのかどうか、それがリヒャルト・ワーグナーの「ニーベルングの指輪」に出てくるジークフリート神が世界秩序を破壊するときぐらい自由なのかどうかは、私にはわからない


*わたしは自由意志は錯覚だと主張せざるを得ない。しかし、ここで言葉の意味を哲学的に掘り下げている暇があったら、人間のニューロン・ネットワークをどのようにして「測定」するのか、かなり奇妙なアイディアまで含めて、トライした方がいい。


ジャーナリスト: コッホ教授にとっては、自由意志の問題は、NCCの探究とは別問題だととらえてもよろしいでしょうか。


*


コッホ: まさにそのとおり。自由意志が存在しても存在しなくても、感覚経験という難問については説明がなされなければならない。


*そうです。


ジャーナリスト: NCCの発見は、我々に何をもたらすと思いますか?


*


コッホ: NCCの状態をオンラインで測定する技術のような、実際に役に立つものが我々に身近になるのは確かでしょう。医療従事者は、そういう意識計のようなものを使って、未熟児および幼児、重度の自閉症患者あるいは老人性痴呆症、負傷のため話すことも合図を送ることもできない患者などの意識状態をモニターすることができるようになる。また、それによって、麻酔技術もさらに進むだろう。意識がどのように脳から生じるのかが理解されれば、科学者はどの動物種には感覚能力があるかがわかるようになるだろう。霊長類は、世界を我々と同じように視覚と聴覚を通して経験しているだろうか? 哺乳動物はどうか? 多細胞生物は? これらの問題の解決は、動物権アニマル・ライトの議論に深く影響するはずだ。


*そうかな?


ジャーナリスト: 具体的にはどのように?


*


コッホ: NCCを持たない種は、ある知覚入力に対して一定の運動を起こす、というシステムの集合体、すなわち、主観的な経験のないゾンビと見なせる。そのようなゾンビ的な生物に、様々な状況でNCCを示す動物と同じレベルの保護を与える必要はないだろう。


*そうか?


ジャーナリスト: ということは、苦痛を感じる動物をつかって動物実験などはできないことになりますか?


*


コッホ: 理想的にいえば、確かに動物実験などしないほうがいい。しかし、実際にはそうもいかない。私は一人の娘を乳幼児突然死症候群で誕生の八週間後に失ったことがある。私の父親はパーキンソン病で十二年間も苦しみ、最期にはアルツハイマー病との合併症を起こして死んでしまった。私の親友は精神分裂病の最も強烈な発作中に自殺してしまった。こういう悲劇や数多くの神経系の病理を根絶するためには、動物実験はどうしても必要となる。細心の注意と、同情、場合によっては、(この本に記述されたサル研究の大部分のように)動物達が自発的に我々に協力してくれるような環境を整えて実験することが大事だ。


*


ジャーナリスト: 倫理問題や宗教に対してNCCの発見はどのような意味をもつでしょうか?


*


コッホ: 形而上学の視点から言えば、神経科学が相関関係コリレーションを越えて因果関係コーゼーションに辿り着けるかどうかというのが重要なポイントになる。科学者が求めているのは、神経の活動から主観的な知覚表象へと続く、一続きの因果関係を説明する理論なのだ。「どの生物」に「どんな条件の下で」主観的な感情は生成されるのか?「何のために」、そして「どのように」意識が生じてくるのかを説明する理論が。もしも、万に一つの可能性として、そういう理論を公式化することができたとしよう。その公式が、客観的に測定することができない、今のところ知られていない存在論上の実体を含まずに構築されるとしよう。このような理論体系は、ルネッサンスにはじまった科学的な努力の結晶が、最後の大きな山を登りつめたことの証となるだろう。数学的に言えば、「閉じた系」において、精神が物質からどのように発生するかを定量的に説明することが可能になる。この理論は、倫理問題への重大な影響を与えることになるし、新しい人間の概念を生み出すことにもつながるだろう。人間はいつの時代も、どの文化においても、あるべき人の姿というものを概念として伝統的につくりあげてきたが、そういう従来のイメージとは根本的に異なる人間像が生まれてくるかもしれない。


*それはそうだ。でも、そんな風呂敷を広げる前に、「何か」を「測定」しよう。


ジャーナリスト:必ずしも、誰でもがそういったシナリオに興奮するわけではないと思います。理論化が成功すれば、宇宙からすべての意味を奪い去ってしまうことになるかもしれない。科学は無慈悲で、人間性を失わせる側面があるが、意識の解明に至っては、その最たるものだと主張する人たちも出てくるでしょう。


*理論化が成功していなければ、安心していられるのですか?その人たちは。おかしなことだ。
*たとえていえば、円周率は、3.1と3.2の間にあるだろうと言われていて、しかし、はっきりとは証明されなくて、具体的に、3.15よりも大きいのか小さいのかも分かっていないという段階であるとして、しかしそれでも、半径と円周との間には、比例的な関係があるだろうとは推定できるのであって、はっきりしていないから、比例もしないだろうと言っているのはやはり納得できない。


コッホ: そんなことはない。新たな知識を得ることで、世界の素晴らしさを感じられなくなってしまうなんてことはない。物を見たり、嗅いだり、味わったり、触れたりすることのできる、全ての物質はたった九十二個の原子から出来上がっているということに対して、私は畏怖の念すら感じる。あなたも私も、この本も空気も地面も、空の星だって、全部が全部ですよ。これらの原子は、周期表の上に並べることすらできる。原子はさらに、陽子・中性子・電子のより3つの基本的な要素からできている。神秘主義の知識がこういった科学知識以上に、満足感と畏怖をもたらすことがあるだろうか?また、科学知識の理解によって、人類・犬・自然・読書・音楽への私の愛が一ビットたりとも減少するなんてことは全くない。


*ここはわたしは違う。世界観や人間観に大きな影響があると思う。そして、すでにあるべきだと思うのである。それがないというのは、何か誤解をしているのだろうと思う。


ジャーナリスト:宗教はどうでしょうか?多くの人が身体が死んだ後も生き続けるある種の永久の魂を信じています。彼等に対しては何ていいますか。


*


コッホ:彼らが抱いている信仰の多くは、現代科学の世界観とはどうしても矛盾を起こしてしまう。私がはっきりと言えるのは、すべての意識的な行為や意図には、物理的な何かに相関しているということだ。生命が終わると、意識も終わる。脳なしに精神は存在しないからだ。この否定しようのない事実も、魂の存在、蘇生の可能性、および神に関しての信仰と矛盾しないかもしれない。


*彼らが抱いている信仰の多くは確かに矛盾をひきおこす。しかし、非常に限られた、すばらしく洗練された信仰の体系は、現代科学の世界観と矛盾を起こさない。神に関しての信仰と矛盾しない。


ジャーナリスト: コッホ教授は今、この本を書くという五年間の苦難を終えました。お子さんも大学に入学しましたし、これからの人生の目標についてお聞かせください。


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コッホ:モーリス・ヘルツォクがヒマラヤ山脈の初登頂を成し遂げたときの記録「アンナプルナ」の結びの言葉の通りです:人生には他にもアンナプルナ山麓はあるさ。