統合失調症のメタサイコロジー

多彩な引用の糸により織り成されている。
糸をほぐしていく楽しみもまたある。

華麗なレトリックを横から照らしているのは誠実さである。

*****
臨床精神医学36(1):11-23,2007
内破する自己
統合失調症のメタサイコロジー
内海健


1 はじめに

統合失調症の病像は,近年著しく軽症化し,
臨床の風景は往時と比べてはるかに穏やかなも
のとなった。このことには大方の臨床家が首肯
するだろう。変化の徴候は,1970年代欧州にお
けるBleuler M やCiompiの大規模な経過研究
が,この疾患の予後がそれほど悲観的でないこ
とを示した頃にすでに現れ始めていたことはい
え,そもそもこの疾患がBleuler Eによって提
唱されたときには,現在よりもなお治療可能性
への希望があったのであり,それ以降の約半世
紀が最も暗黒の時代だったのかもしれない。予
後の再評価と軌を一にして,Zubinらがchronicityから
vulnerabilityへと疾病概念を切り替
え,それを嚆矢に,社会復帰や再発予防へと臨
床の軸足が移動した。これらはまずは歓迎すべ
きことだろう。
しかし他方で,この疾患の病態解明は巨視的
にみてそれほど進んではいない。1950年代の精
神薬理学的革命を最後にして,むしろ停滞して
いるとさえいえるのではないだろうか。にもか
かわらず,かつての二元論的対立が,ほぼ生物
学的な見方に解消されていくのもまた奇妙とい
えば奇妙なことである。だが視点を変えれば,
このような事態を招来したのは,精神病理学的
思考の衰弱であることがみえてくる。
こうしてみると,変わったのはもっぱら疾病
観の方なのかもしれない。というよりむしろ,
単に強いパラダイムが消失しただけのことでは
ないだろうか。もっともこのことは,病者たち
が妙な疾病概念を押しつけられなくてすむとい
うご利益を生んだ。例えば「脳の病気」という表
現が持つ影響を考えてみよう。一時代前なら,
それはおぞましい響きとともに,告知された者
に「社会的死」に等しい意味を与えただろう。し
かし今では随分とニュートラルなものとなっ
た。筆者は使ったためしがないのだが,与える
侵襲は,かつてよりはるかに小さいだろう。む
しろ安易に使いすぎることを戒めなけれぱなら
ないほど軽薄なことばになっている。
だが,こうした変化を手放しで評価してよい
かというと,そういうわけでもない。さまざま
な科学的意匠を身にまとうにつれ,記述は貧相
なものとなり,病理の理解は浅薄になっている。
そして臨床家がこの疾患を受けとめる力はむし
ろ衰弱しつつあるように思う。ことの深刻さは
しっかり自覚しておくべきことである。
パラダイムが力を失ったことは,Bio-Psycho-
Socialという今流行の疾病モデルによく表れて
いる。よくいえば統合的なのだが,どれもこれ
もインパクトに欠けるということにもなりかね
ない。それが単に杞憂ではないことは,最近
spiritualという第4の次元が加えられたことに
表れている。bioはともかくpsychoとsocialに
はある意味で致命的なことである。なぜならそ
れらはもはや魂(spirit)に届かないものに成り
下がっているのである。
改めて「統合失調症」と呼称を変えたこの疾患
について,精神病理学的思考を継続しようとす
るならば,psychologyという分野から,いっ
たんきっぱりと袂を分かたねばならない。なぜ
ならそこでは「自己」というものが自明の前提と
なっており,自己そのものが問われることはな
いからである。これではこの疾病の真理に触れ
ることはない。
かつてこの疾患が思春期心性と親和性を持
ち,しばしば自立や自己確立への強い磁場のも
とで発症し,自己のまさに自己性にかかわる病
理を持つことは,ある意味で精神科医の常識で
あった。病者はその最深部において,まさに
自己が「内破」する危機に遭遇しており,その戦
慄は,症状を超えて直截に感じ取られるもので
あった。これはことばの本来の意味でのセンス
(意味=方向性)の問題である。
いうまでもないことだが,DSMにせよICD
にせよ,現時点で精神科の標準的な症候学とさ
れているものは,センスとは無縁である。とり
わけ自己そのものにかかわる病態は描けない。
というのも,これらの体系は「語る自己」を前提
とし,その自己の陳述から成り立っているから
である。自己は透明でなければならないのであ
る。
本稿では自己という舞台をいったん解体的な
局面に導き,その中にスキゾフレニックな病理
のモメントが現れ出るのをとらえてみよう。め
がけるべきは舞台の上で繰り広げられる現象で
はなく,舞台そのものの病理である。


2 自己は差異に棲まう

「私」というもの,あるいは「自己」というもの
は,健常人にはそれと意識されることほとんど
ない。自明なものである。
しかし「私」ほど偶然なもの(contingency)
もない。それに気づくとき,自明性は忽然と
転覆する。考えようによっては,自己はほと
んど奇跡のような狭い隘路をたどって誕生し
たのかもしれない。それは心脳問題という形
で,多くの神経学者を悩まし続けてきた。例
えばPenfieldは電気エネルギーが何故に心の
働きを呼び起こすのかという問いの前に佇み,
EcdesはPopperとの対話の中で,心は脳の外
部から到来したとしか考えられぬと信仰告白し
た。「私」という不可思議なものは,ひとたび懐
疑にとらわれると,それは際限のない不安を呼
び起こす。統合失調症において,それはほとん
ど語られることはないが,他のどの疾患にも比
肩できぬほど,おそらくはその心性の最も深い
ところにある問いであろう。

症例:28歳女性寡症状型
「純粋で悪というものを知らない」という表現が文
字どおり当てはまる,そんな少女時代を過ごした彼
女には,小学校時代から少し年上のICがいた。困っ
たことがあると,夜になるのを待ってベランダに出
ては「彼女」を呼び出し,指示を仰ぐのであるが,そ
れには「ものすごいエネルギーと集中力」を要した。
高校になって,「なんとなくそれはよくない」と思い,
呼び出すのをやめた。
大学を卒業して就労後,半年ほど経ったころ,心
身の不調に引き続く形で発症した。彼女(患者)の様
態は,不安と混乱という粗いくくり方しかできない
ような,つかみどころのないものだった。状態につ
いてたずねられると困惑し,「それが覚えていないの
です」と申し訳なさそうに答えた。ほとんど存在感を
感じさせない穏やかに笑みを浮かべた表情がにわか
にかき曇り,「生きていることがつらいのです」とポ
ツリと語られると,それ以上でも以下でもない氷の
ようなことばとして,聞く側に突き剌さった。彼女
にとっては生きるか死ぬか,その2つしかなく,死な
ないがゆえに結果的に生きているだけといった日々
が続いた。
死の淵に長らくとどまったあと,ある頓悟体験が
訪れ,彼女はようやく小康を得た。それに先駆けて,
発病前の次のようなエピソードが語られた。
休日の午後,彼女はそれとなくテレビを観ていた
のだが,ある出演者が妙に気にかかった。そしてそ
の人がそこまで至るのに,ごく細い道しかなく,そ
の道がガラス細工のように,折れ曲がった線として
見えたような気がした。
人がこの世にかく存在していることの背後には,
ごくかぼそい隘路しかないこと。この危うさの実感
はすぐさま反転し,彼女自身に向けられたのであろ
う。このcontingencyとの遭遇は,恩寵と感じられる
こともあれば,解体的な不安を呼び起こすこともあ
る。そうした正反対のベクトルがなだれ込むゼロ地
点である。
*
自己はまた万古不易のものであったわけでは
ない。それどころか,もしかしたらごく最近の
発明であるかもしれないのである。少なくとも
この疾患にかかわる近代的な自己の場合には,
Foucautの文言を借りるなら,「たかだか2世
紀とたっていない表象」なのかもしれない。
では近代的自己とはどのようなものであろう
か。それはある種の「二重性」によって特徴づけ
られる。そしてそれには2つの系譜がある。
1つは,Foucaultが「人間」の構造として取り
出した<超越論的一経験的>二重性である。お
そらくKantの批判哲学を念頭に置いたものだ
ろう。いま1つは,その約1世紀のちに現れた
Freudの精神分析における<意識一無意識>の
構造である。
近代思想の2つの主要な水脈に,二重構造性
が共通して取り出されること。これは何を意味
しているのだろうか。もしかしたら,自己とい
うものは,自己自身に一致してはいけないのか
もしれない。ピタリと折り重なり,影を失えば,
とんでもない災禍が起こるかもしれない。何か
そうした不吉なものを予感させる。
例えばもしKantがHumeの教え忠実に,世界を経
験的なもの(現象)だけに限定し,経験を越境しよう
とする理性のために超越論的な次元(もの自体)を余
地として残しておかなかったとしよう。そのとき現
象を認識する私は,その現象の中にどのように棲む
ことかできるのだろうか。それは外部へと放擲され
てしまうか,あるいは内部に溶解してしまうことに
なる。あるいはWitigensteinのように,自分の知覚
野にそれが自分の経験であることを示すものがない
ことを発見して驚愕することになる。彼は私を世界
の縁にかろうじて見いだす。
精神分析においても,無意識の系は意識の系に解
消されるようなものではない。例えばLacanが示し
たように,主体が無意識に接近するためには,主体
として消滅しなければならない。あるいは快感原則
は現実原則との差異のもとで定立される。もし欲求
が迂回を経ず即時的に満たされるなら,それは死の
欲動に転ずる。


こうした思想史の一瞥によって示されるの
は,単に自己というものが二重構造を持って
いるということにとどまらない。それはスタ
ティックな見方にとどまる。「2つの自己がある」
というのはさらなる後退である。重要なことは,
自己とはこうして拓かれた差異の中に棲まうと
いうことである。
このいい回しの違いは微細にみえて,実は決
定的なものである。というのも,ここでは差異
が先行していることが示されている。差異こそ
が自己を与えるのである。同一性が立てられる
のはその後というととになる。
自己が自己であるためには,差異が拓かれな
ければならない。近代の自己はその主体性を誇
示しているようにみえて,実のところは隙間を
見つけ,襞を作り,自らが棲む場を見いだし,
そこに身を忍び込ませなければならなかったの
である。
そして統合失調症が自己の自己性にかかわる
ものであるとするなら,こうした自己のあり方
がその病理と深くかかわっていることはいうま
でもないだろう。この疾患に親和性がある者に
こそ,「ヨク隠レタル人,ヨク生キタリ」という
格率は妥当するのである。


統合失調症の理解のために,哲学・思想的観点が
要請されるのは,ある意味で至極当然のことである。
もっともそう容易なことではない。精神分析学はパ
ラノイアを範例とし,転移を基軸にすえる限り,こ
の疾患には歯が立たない。
他方,〈超越論的一経験的>という構図を引き継
いだ現象学は,一定の成果を収めてきた。ただ,そ
れでも十分とはいえない。木村敏のような例外を除
けば,多くの場合がその応用や援用にとどまってい
る。そこにさらに哲学固有の問題が加わる。谷が
鋭敏に指摘するように,現象学がそもそも世界がす
でに成り立った地点から遡及する学である限り,成
功した意識のストーリーしか描くことができない。
その応用にとどまる限り,統合失調症は結局のとこ
ろ欠如態や障害として説明され,それで終わりとい
うことになる。
必要なことは単なる応用ではなく,ある種の「パト
ス的な読み」である。例えば現象学が意識という舞台
を作り上げる際に,そこに分裂を持ち込まざるを得
なかったこと,その軋むような自己の生成を読み取
ることである。
意識が拓かれてあることの,そしてそれが他
ならぬ私の意識であることの徹底的なcontingency,
そうしたことに驚くことこそ,現象学を
はじめとする近代思想の本来の出発点だったは
ずである。私たちは隘路が切り開かれた末によ
うやく生成したのであり,この地点に立ち戻る
ことによってはじめて,統合失調症の病理へ端
緒が見いだされる。
いくらか結論を先取りすることになるが,差
異が消失するとき,スキゾフレニックな病理は
発動する。襞が押し広げられ,間隙から追いた
れられ,自己のcontingencyは白日のもとに露
呈するのである。この強度こそがこの疾患の病
理と深く関わっているはずである。


3 自己は立ち遅れている


さて,自己が差異の中に棲まうものであり,
差異が先行しているとするならば,自己にはあ
る種の「遅延」が内在していることになる。すな
わち,私たちの自己は立ち遅れているのである。
このことは何も奇を街った見方ではない。例
えばごく通俗科学的な発想をするなら,私たち
は事象に常に立ち遅れるはずである。なぜなら,
事象が起こって,しかるのちにそれを認識する
からである。視覚体験を例に取るなら,外界か
らの光刺激が感覚器で変換され,電気信号とし
で末梢から大脳皮質に伝達されてのち,はじめ
て像が結ばれる。しかるのちにそれについての
意味や解釈が付与されるという具合になる。し
かし私たちはそれを「私は見た」という。
ここでBenjamim Libetの実験に簡単に触れ
ておこう(これについては深尾の的確な解説
がある)。
リベットはまず,大脳皮質に対する直接の電
気刺激によって感覚の意識を引き起こすために
は一定の時間(約0.5秒)の刺激の持続が必要で
あることを見いだした(タイム・オン理論)。次
にリベットは脳外科手術中の被検者を用いて,
大脳皮質体性感覚野を直接に電気刺激した場合
と,その感覚野に対応する末梢からの刺激を
比較した。その結果,末梢刺激の方が0.5秒先
行することが見いだされた。ここからLibetは,
「体感の知覚は実際には刺激開始から0.5秒後に
起こっているのだが,主観的には刺激直後に起
こっていると感じられる」と考え,脳の中には
意識的知覚の時刻の「繰り上げ(antedating)」の
機制があるという仮説を提出した。
この実験および仮説についてはいまだ結論を
みず,20年以上たった今も,脳科学や哲学の領
域において議論がたたかわされている。Libet
の前提には,「意識の経験は被検者にしか確認
できず,客観指標はない」ということがある。
私見を述べるなら,この実験では,<意識の系
>と<自然の系>が踵を接して重ね書きされて
おり,そこに心と脳の接続あるいは切断が,ク
リティカルな形で露呈されている。
それはまた,一人称の(主観的)時間を三人称
の(客観)時間上に記し付けることといい換えら
れるかもしれない。客観的時間からみれば,主
観的時間はその中に位置づけられるべきもので
ある。だが主観的時間は客観的時間を超越する
可能性を持つ。そうでなければそもそも時間の
計測も不可能になる。
私ならLibetの「知覚の時間遡行的対応づけ」
仮説は,意識はあたかも時刻を繰り上げたかの
ように自然に接続すると読み替えるだろう。こ
の「かのようにals ob」の紙一重が「自己」のあり
かである。いずれにしても意識の系と自然の系
は同一平面にはない。三人称の等質的な時間を
水平的時間とするなら,一人称の時間は「垂直
軸の時間」とでも呼ぶべきものかもしれない。
知覚よりもより能動的な行為の場面を想定し
てみよう。例えば私が何かの発言をする。私は
これからいう内容をあらかじめ心に描き,そし
てそれをことぱにして他人に伝える。ここには
何の遅れもないようにみえる。しかしそれは今
しがた知覚の局面でみた「私は見た」と同じであ
る。ここではすでに遅れが取り戻されている。
実際のところは,私は声にして出すまで,さ
らにはいってみるまで,私がいいたかったこと
をあらかじめ十全に知っていたわけではない。
いい放って,ことばは眼前の他者あるいは不在
の他者,さらには言語という制度に突き当たる。
そしてそこから意味が跳ね返って,私に与え返
されるのである。何も抵抗を受けない発言は,
虚空をさまよい続けるか,あるいは闇に消える
ことになる。抵抗にぶつかって,はじめて発言
の意図や趣旨が私に与え返されるのである。ど
のように綿密に予定された発言でも,こうした
側面を持つ。そうでなければオートマトンの運
動になる。
行為が終結したとき,実現された意味と本当
にいいたかったことの間に落差が生じる。ここ
で次の2点に注意しなければならない。まず両
者の差異は必然的に生じるということ,そして
その差異の中にこそ,自己が棲むということ。
次に,「本当にいいたかったこと」はもはやない
こと,それどころかそのようなものは最初には
なかったかもしれないということ,さらにいえ
ば,後から(nachtraeglich)生じたのかもしれな
いということである。
知は行為に遅れてやってくる。それと知らず
やっていることを,知は追いかけてきて認識す
る。こうした事態はSchellingがかつて「先験的
過去」と名づけたものに該当するかもしれない。
意識の系を通って,しかる後に過去になったも
のではなく,一度も現れなかったものであり,
垂直軸の方向に沈んでいる。
さて,自己は遅れて立ち上がるといった。し
かしすでに気づかれていると思うが,自己はこ
の遅れを取り戻してもいる。気がついてみると,
いつのまにか知覚の,あるいは行為の主人のよ
うな顔をしているのである。
自己は差異によって与えられたが,遅れを
とっていた。しかしその遅れという落差の中に
自らの場を見いだし,さらにはその遅れを自己
が自己であるための距離,あるいは場とし,つ
いには事象を主体化するのである。ここには遅
延を逆手にとり,ついには先んじるという離れ
業がある。


4 体験の文法


自己はおのれの中に書き込まれた遅れを取り
戻している。
確かに「私は見た」のである。このように過去
形で語られることが,「私は見る」,「私は見て
いる」といった時制よりも強い確信を表現して
いるのは示唆的である。これは単に自分の意識
を経由した過去の経験を述べているのではな
い。その場に居合わせなかったことに対して,
それを自分の経験として取り戻してりるのであ
る。「確かに私はそのときもそこに居合わせた
のだ」と。この取り戻しによって,日常的なふ
くらみのある「現在」という時間が構成される。
それはいくらかあいまいでもあり,柔軟でしぶ
とくもある。
この遅延の取り戻しの成否が,統合失調症の
病理と深く関わっている。彼らの体験様式は,
「現在」が持ってしかるべき厚みが痩せ,広がり
に欠けている。それゆえ,事象はくいきなり>
やってくる。彼らをとりまく空間は,いつなん
どき何か起こるかわからない兆候に満ち,それ
でいて平板でよそよそしいという奇妙な相貌を
現す。そしてそこから忽然と出来事は到来する。
構えができていないところにいきなり衝撃をく
らう。体勢を立て直すまもない。気がついてみ
ると,事象はくすでに>過ぎ去っている。そし
てもはや決定済みのこととして張りついてしま
う。
このくいきなり>とくすでに>が,スキゾフ
レニックな時間のあり方の基本である。彼らは,
人のしぐさをみて異常な意味を付与したり,読
み取ったりするのではない。直観するのである。
それは郵便ポストが赤く見えるのと同じよう
に,すでにそこに与えられている。そう見える
からそう見ざるを得ないのであり,解釈する余
地はない。
幻聴もまた,いきなり到来し,気がついたら
すでに過ぎ去っている。何を告げられたかはよ
くわからないが,得体の知れない衝撃だけが確
かなものとして残っている。あるいは意味だけ
が忽然とそこにある。そして張り付く。私が介
入する余地はなく,聞き従うしかない。
しかしそれでも患者は「聞こえた」という。そ
うすることによって,懸命にこの体験ならざる
体験の主体になろうとする。自己の立ち遅れを
取り戻そうとしているのである。それは自らに
拘束衣を装着するようなものである。体験の文
法はどうにもしっくりこない。だがそうでもせ
ぬ限り,出来事はどこからも承認を受けず,世
の中に登録されぬままさまようことになる。そ
れゆえ患者は空しく,あるいは執拗に「聞こえ
た」,あるいは「聞いた」と繰り返さざるを得な
い。そこに医療の側も加担して,異常を日常に
回収しようとする。その結果,患者は「幻聴を
聞いている」というグロテスクな記述が生み出
される。
だが同時に,「聞こえた」と訴える彼らは,日
常性というものが糊塗している体験のリアリ
ティを述べているのではないだろうか。私たち
は決定的に遅れているのである。しかしそれに
気づいていない。私たちは「聞こえた」という事
象に先行されている。さらには聞かされたので
あり,そこから我に返って自己を立ち上げたの
である。だがそのことは忘れている。というよ
り私たちの経験の舞台はこうして作られたので
あり,いったんでき上がると,舞台の製作過程
は視界の外に消える。
こうした自己の生成について,中島は夢か
ら覚醒する体験に事寄せて論じている。われわ
れは覚醒してはじめて「ああ,夢をみていたの
だ」と振り返る。睡眠中に私は消滅しているは
ずである。しかし後から私は夢をみていた主体
として,その消失を取り戻すのである。
中島の論には次の2つのことを付け加えてお
きたい。1つは夢から醒めたことが「私」を与え
たということ。つまりこの場合は,夢が自己を
与える起源であり,夢こそが自己の真理の場に
なっているということである。いま1つは,私
は目覚めることによって,生理的に覚醒する一
方,現実の中にまどろむのだということである。
そして私の起源と,私がそこから危うく立ち上
がったことを忘れるのである。
こうした自己の生成のドラマは,<睡眠一覚
醒>という生理現象に限定されるのではなく,
常に起こっている。ただそれに気づかぬように
なっているにすぎない。私はそのつど立ち上
がっているのである。水平の時間の中に,垂直
軸の時間が潜在している。
襞が押し広げられ,隙間から追い立てられた
統合失調症は,もはや現実にまどろむことがで
きない。安心して現実の流れに身を委ねること
がもはやかなわない。そのとき,時間の深淵が
例外的に開示される。垂直軸がたち現れ,おの
れの起源が姿を現すことになる。
そこは自己の真理の場であり,現実をはるか
にしのぐリアリティがあるのだろう。それゆえ
病者は「私は聞いた」と執拗に,そしてむなしく
主張せざるをえないのである。


5 起源からの呼びかけ


自己は差異の中に棲むと述べた。実はこの差
異には方向性がある。そのことは<超越論的-
経験的>あるいは<意識一無意識>の二重性
が,非対称な構造であることが物語っている。
今しがたの夢の例に示されているように,差
異とは起源との差異である。自己が自己として
生成するためには,おのれの起源から一定の離
隔を持たなければならない。
例えば名について考えてみよう。われわれの
誰しも何らかの名がついている。その際,まず
私というものがあって,しかるのちにその私の
呼び名がついたのであると考えるだろう。いや,
考えるまでもなく自明なことである。ところが
実のところ,私よりも名は先行している。まだ
自己がないときに私は命名され,その名で呼ぱ
れていた。そしてその呼びかけから,あるとき,
私が立ち上がったのである。
私の自己は,自分の名を核として形成された
のである。Kripkeは固有名を固定指示子rigid
designatorと呼び,意味や属性に還元されない
ものであるとした。彼の理論は,とりわけ人間
の固有名の場合に,ラッセルの確定記述説-
固有名は記述の束に還元できるとするものー
よりはるかに妥当する。私の属性をいくら記述
しても私には到達しない。名を失った私はもは
や私ではない。
ただしKlipkeは固有名をその命名の場面,す
なわち命名儀式まで遡れるとした。ことの成否
はともかく,これは第三者の視点からの発想で
ある。だが人間の場合,それも命名された当事
者にとって,その場面にまでは決して遡ること
はできない。
この命名の一撃は,私の自己の奥深くに隠蔽
されている。現れ出ることはない。しかしそれ
は私の核心をなしている。私が誰かに名を呼ぱ
れるたぴ,私が自分の名前を告げるたび,ある
いは私が私である限り,潜在的には常に最初の
命名儀式がreferされている。私はその一撃か
ら立ち上がったのだった。しかしそれは忘却さ
れている。記憶の射程外にある。


症例:21歳男性 破瓜型
専門学校を卒業したが,就職に失敗してから無為
に過ごしていた。久しぶりに友人と遊びに出かけて
から,にわかに自分の身の回りを強迫的に整理する
ようになり,窓の閉まり具合や机の上にある物の配
置を何度も確認するようになった。しぱらくしてか
ら気分の高揚した時期が続き,家族に連れられて精
神科を受診して入院した。気分障害との鑑別が問題
になったが,次の出来事は彼か統合失調症性の病理
を持っていることを瞬時に直観せしめるものだった。
入院して数日後,病棟から患者の姿が見えなくなっ
た。スタッフが総出で探したところ,事務部の倉庫
で呆然としているところを発見された。表情はいっ
もに比べて硬く,多弁は影をひそめ,おし黙っていた。
何をしていたのか問われると,「自分の名前が載って
いる機密書類がどこかにあるんです」とボツリと答え
た。


症例:23歳男性,緊張型
20歳頃から精神変調がみられたが,彼の風変わり
な家族はことさらそれを異常に感じず,何かと面倒
をみていていた。会社を辞めてからは,父の現場作
業について廻っていた。3年後,緩やかに長く続いた
緊張病状態の果てに入院した。硬い表情とぎこちな
い体の動きが目立ったが,繰り返し「“イサン’につい
て知っていますか?」とスタッフに漏らした。
来院した父は,患者が以前からアルファペットの
母音の書付を盛んにしていたことを思い出し,治療
者と父は,彼の名前をアルファベットで書くとTが
3つあることに気づいた。父自身も昔から名前につい
ていろいろ奇妙な思考をしたことがあるのだという。
彼に改めて聞いてみると「僕はイサンの人です」と答
えた。


自己は自己であるために,おのれの起源を忘
れていなければならない。いい換えるなら,私
たちの意識が立ち上がるとき,それを可能にし
てくれたものを,あたかも夢を忘却するように,
封印しておかなければならない。舞台の上で展
開されることと,舞台そのものの間には分断線
が走っているのである。
多少メタフォリカルな表現に流れるが,統合
失調症者はどこかで起源からの呼び声(Ruf)を
聞いたのかもしれない。あるいは触れてはいけ
ない舞台の秘密を見てしまったのかもしれな
い。彼らは自己であるためには踏み越えてはい
けない分断線を跨いでしまった人たちなのでは
ないだろうか。
彼らの中ではしばしば2つの水準が接続して
しまう。その結果として,いわゆるlogical typing
の混乱が起こる。舞台の上にある一要素に
過ぎないものが,舞台そのものへと底が抜けて
いく。あるいは舞台そのものを舞台上の一要素
が担うことになる。
もっとも舞台そのものが問題になることは,
健康人でも起こりうる。例えば,進学や就職に
際して,青年の心は人生そのものを選択するよ
うな戦慄にかられるかもしれない。あるいは舞
台そのものが根底から変容することもあるだろ
う。異性という未知なるものとの遭遇,子が生
まれて父になることなど。それから忘れてなら
ないのは,時代の変化のわずかな兆候。これら
はすべて,この疾患を発動させうる起爆力を秘
めている。
発病後は,ごく日常的なことでも,それがそ
の地盤へと突き抜けていくことが起こる。例え
ば右に行くか左に行くか,その選択で世界その
ものが変わってしまう。これはこの疾患の解体
の極北である緊張病状態の基本心性である。草
を一束抜いたら,大地まで引っこ抜くようなも
のである。
われわれの舞台として最も重要なものとして
「社会」がある。統合失調症では,自己と社会が
踵を接している。中間のバッフアーを介さずに,
社会の持つ圧力が直接かかってくる。自閉の繭
を紡いでも,それは自己の中に割り込んできて
しまう。
例えば自我障害の多くは,こうした社会から
の侵襲を反映している可能性がある。「考えが
押しつけられる」であるとか,「考えが盗まれる」
というのは,掛け値なしに社会との関係を表現
しているのかもしれない。しかしそれは舞台そ
のものが自分に侵襲してくる訴えとは聞き届け
られず,世界内の了解不能な一事象として処理
され,患者の内部の症状として登録されること
になる。こうして患者は自分の考えが聞き届け
られず,社会の側の考えを押しつけられる羽目
になり,彼らの言説が正しいことを虚しく証明
することになる。


6 虚実のはざま


Foucaultは近代の権力を制度的なもの(規
律権力(pouvoir disciplinaire))と特徴づけ,そ
れまでの目に見える権力である王権力(pouvoir
royal)と断絶したものであるとした。この移行
を象徴するのはもちろんフランス革命である
が,それからまもなくして統合失調症とおぼし
き事例が医学文献に現れ始める。
規律権力は透明であり,健康人には普段それ
と意識されない。しかし統合失調症者には常に
異質なものとして立ち現れる。舞台の上から舞
台そのものへと降りていくに従って,自明性は
恣意性に転じていき,グロテスクな様相をみせ
る。行動も逐一制度的なものとぶつかり,齟齬
をきたす。それまでのように自然にふるまえな
くなる。多少極端なたとえであるが,日本語を
話すたびに,意識して日本語という言語を選び
取らねばならないようなものである。いわゆる
「オンディーヌの呪い」をかけられている。
患者はしばしば虚偽意識にとらわれる。「見
せかけ」,「にせもの」,「陰謀」といった主題に
取り囲まれ,彼は疑いに苛まれる。しかしこれ
は本来,物事の「真偽」の問題ではない。<真一
偽>とはあくまで舞台の上での話である。そう
ではなく,舞台全体の「虚実」の問題である。<
虚一実>というのは,対称的なカテゴリーでは
ない。虚構から現実が作られているということ
である。
とにもかくにも現実が構成されるためには,
とりあえず礎石を置かなければならない。その
礎石は対立物を持たない。世界の内部にはない
ゆえに,共通の尺度がなく,他の礎石と比較し
ようがない。尺度はあくまで礎石が置かれてか
ら作られ,舞台の上で使用されるものである。
私たちは,この礎石を肯定している。という
より,肯定してしまっている。すでにそのうえ
で自分の現実を作り上げてしまっている。否定
すれば自分の土台を転覆させるようなものであ
るし,否定すべくもない。
<肯定一否定>の二項対立以前の肯定は,お
そらくFreudがBejahungとして一瞥を投げか
け,否定(Verneinung)に先行せしめたことを連
想させる。精神分析的文脈において,Bejahung
は親が子どもに与えるものである。私たちは
自分に先行する礎石に対して,「はい(ja)」と
いうしかない。この「はい」は応答でしかない。
Derridaのいうように,つねに2度目の肯定,
あとからの肯定である。
しかし統合失調症はこの掟にあらがう。なし
くずし的に肯定することができないのだ。そう
なると,礎石はにわかに無根拠なものとなる。
恣意性が剥き出しになり,原初の肯定が虚構で
あることがあらわになる。彼らは現実の中に含
まれている虚構(フィクション)に気づいてし
まったのだ。
通常,フィクションは現実と対置される(<
現実一虚構>)。しかしこれは<真-偽>と伺
様,舞台の上での二項対立であり,ある意味で
倭小化されたものである。フィクションの本来
の機能は現実構成的なものであり,現実の中に
分かち難く侵入している。というより現実の礎
石なのであった。そしてこの現実を構成してい
るということに気づかせないでいる(さらに付
け加えるなら,舞台の比喩が示すように,その
うえで繰り広げられる現実の方が虚であり,礎
石の方が実であるかもしれないのである。だが
それは今はおく)。
もっともわれわれもフィクションに気づくこ
とがある。だがそれはあくまで世界の中の出来
事にすぎない。どこか別の場所に正しいものが
見いだされると信じている。というよりフィク
ションに気づいただけで,ひとまず「事は済ん
だ」と安心している。これもまたフィクション
の罠である。
しかし統合失調症はフィクションの差し出す
現実にまどろめない。現実の中の虚に気づいて
いる。そして気づいてしまった「意識の不幸」を
背負い続ける。さらにそこに,「世の中の秘密
に触れてしまった」,「結界を踏み越えてしまっ
た」という「悪」の意識か付きまとう。現世的に
は何も悪いことはしていないはずなのに,それ
でも人々は私を批難し,いずれは官憲が逮捕し
にやってくる。
ここでも悪は<善一悪>の二項対立の中にはな
い。善悪の彼岸における「根源的な悪」である。
彼らは法の内側でその規則を侵犯したのではな
く,法そのものの外に出ることによって,法を
侵犯してしまったのである。


7 差異と同一性


根源的な悪はしばしぱまがまがしい形象に結
実することがある。それは人が結界を踏み越え
たしるしとして刻印されることになる。


症例:35歳男性,緊張型
3人の兄が次々に罹患する中で,彼は父の家業を継
いで一家を支えてきた。しかしその彼も30歳の手前
でついに発症し,その後シューブを繰り返した。
再発のたびに激しく,そして戦慄するような緊張
病性の興奮に陥るのだが,そのとききまって「母が殺
された」と咆哮した。母は5人の男になぷり殺しにさ
れたのだという(ちなみに彼は5人兄弟だった)。男た
ちのうち4名はありふれた名前だったが,1人だけ「ケ
チェンジ」というおぞましい響きを持つ者が含まれて
いた。別のシューブのときも同じ男たちのことが語
られたが,そのときは「ケチェンジ」は「KChange」と
なっていた。殺された母は頭蓋骨が割れ,はじけた
柘榴の実のように脳が剥き出しになっていた。
彼の訴えがあまりにも迫真に満ちていたため,若
い治療者は真偽のほどを患者の近隣に住む職員をと
おして確かめてみた。「随分前に卒中でなくなったら
しいですよ」との報告を受けたとき,治療者は夢から
現実に引き戻された心地がした。


舞台の上から舞台裏へ,現実から虚構へ向
かって遡るとき,かくもおぞましい表象に突き
当たる。それは起源に触れてしまったことを告
げている。
ところで自己であるためには起源から差異が
拓かれてなけれぱならないのであった。起源に
触れることは,自己の解体を意味する。それゆ
え決して触れてはならない。だが次のこともま
た考慮されてしかるべきである。すなわち,私
たちはかつてそこに触れたかもしれないのであ
る。
というのも,自己は最初から成立していたわ
けではない以上,どこかでその母胎から分離個
体化を果たしたのである。心的な世界の中には,
通常は隠蔽されているものの,臍のようなもの
が残されているはずである。
統合失調症の発病,あるいは再発に際して,
しばしば患者には妙に気になるものが現れる
が,その中には起源へと通底する入り口ではな
いかと思わせるものがある。あるいは慢性的に
この「臍」が異物のようにとどまり続けることも
ある。


症例:36歳女性
20代後半から抑うつ的となり,うつ病として薬物
療法を受けていた。その当時から,自分の考えが誰
かに伝わっているというような病的体験が出没して
いたのだが,それはごく最近になるまで語られなかっ
た。数年前から職場で強い緊張を感じるようになり
休みがちとなった。薬物療法が増強されたが,目だっ
た効果はなく,最低限の用足しと,たまに旧友に会
う以外は外出しなくなった。人目が気になるし,自
分の丸顔が恥ずかしいのだという。
そうこうするうちに「親との関係が煩わしい」と,
患者は近くのマンションで一人暮らしを始めた。母
と折り合いが悪いのだという。そして次のようなエ
ピソードを唐突に語った。彼女が中学生のとき,あ
る朝,起きてみると熱があり,いつになくつらかっ
たのだが,母はいつものように自転車に乗って仕事
に出かけて行った。彼女にしてみれば,その日は自
転車で登校したかったのに貸してくれなかったのだ,
と。治療者は怪冴に感じて問い返してみたが,その朝,
彼女は熱があることを母に告げたわけでもなければ,
「自転車を貸してほしい」と頼んだわけでもなかった。
どうことばを継ごうかと治療者がとまどっていると
ころに,「母とはこんなものです」と吐き棄てるよう
にいい放たれた。そこには一縷の取り付く島もなかっ
た。
この事例には妄想や思考障害らしきものは認
められていない。だが,この単一のエピソード
は彼女の人格の中で強い固着点を形成してお
り,異物のように語りだされた。同時に,母と
いうものをすべて規定してしまうようなもので
あった。つまり,個別と普遍がそこでグロテス
クに複合しているのである。
私たちの自己は,その形成に際していくつか
の一見合い矛盾する課題を背負う。例えば,一
方では自己としての個別性を確立しなければな
らないが,他方でその個別性に完全に呪縛され
ず,そこからの超越性を確保しておかなければ
ならない。それはある種の遍在性とでもいうべ
きものであり,決断や成長などの礎石となり,
環界の変化に対応せしめ,そして他者への通路
ともなる。
起源へ通底する入り口は,自己の中に痕跡と
して残されている。その地点を通ってわれわれ
は自己になったのである。それは個別性のしる
しであり,私たちを交換不可能な自己となす。
他方,それは過ぎ去ったものとして,乗り越え
られていなければならない。そこからの自由を
獲得していなければならないのである。
いわゆる自己のアイデンティティとは,起源
の痕跡を核として,その上に堆積していくもの
である。年を経るごとにそれは厚みをまし,ゆ
るぎないものとなる。差異をつねに拓くという
課題は慣性に委ねられていく。そしてこの疾病
のリスクはそれとともに減衰していくだろう。
統合失調症の病理は,この自己であるための
差異が拓かれるところに見いだされる。そこで
彼らは起源の力と遭遇するのである。ただし力
そのものは無症候であり,症候は同一性という
舞台の上で繰り広げられる。
おそらく差異から創発されたばかりの同一性
は,いわゆるアイデンティティのような重たい
実体を持たず,よりしなやかなものだったはず
である。それはKantの統覚Ich denkeのごと
きものかもしれない。すなわちそれ自体は内容
をもたず。しかしすべての経験に身をしのばせ
ている。何も事象に変化を与えないが,そこに
「私には~と思われる」という透明なベールをか
ぶせる。そして統一のないはずの事象にまとま
りを与え,私の経験とする。先行しているはず
の出来事に対しても,そこに私が居合わせたか
のようにして時間を架橋して,遅れを取り戻す。
新しい事象が起きて何がしかの変化が生じて
も,私は私であり続けるだろうという安心感を
与え,そして予測という行為を可能なものとす
る。
だがこの疾患の病理を受け止めるとき,同一
性は実体的なものとなり,そのしなやかさを硬
化させることになる。しかも同一性は,その淵
源であり,そこから創発された差異への通路を
失っている。そのかわりに,起源の力との衝突
によって形成されたもの,すなわち症状が,同
一性の核となる。自己を見いだすために必要
なものとなる。そうなると症状は手放せない。
ここにこの疾患の治りにくさの1つの理由があ
る。
それはかつて命名や呼びかけによって私が立
ち上がった構図と似てはいる。しかし自己を与
えてくれた力は,みずから退隠していき,地平
に沈んでいる。その痕跡だけが自己のどこかに
刻印されている。だが統合失調症では力は顕現
したまま,立ち去らない。それゆえ差異を拓く
恩寵の力ではない。自己に自由と自律を与え返
さないのである。それどころかときとして深淵
の中に誘い込むのである。


8 おわりに


紙幅も尽きたので,最後にもう1つ症例を提
示して稿を終えることにしたい。


症例:38歳女性
発病してすでに10年以上経つが,その間に結婚し,
子どもはいないものの,ひっそりと家事に従事して
いる。いつも上品な身なりで,穏やかな笑みをたた
えて来院する。何気ない生活上の話題がほとんどの
診察時間を占めるが,最後の方で,幻聴が残存し
いて,なかなか取れないことが語られるのが常であっ
た。治療者は彼女の希薄な存在からかすかにかもし
だされる品格に,いつも癒されるような心地があっ
た。何とか幻聴を和らげようと,幾度も処方を変え
てみたが,彼女の状態にはそれほど大きな変化はな
かった。
ある時,同僚と語らっている折に,ふと次のよう
な一連の考えが治療者の脳裏に紡ぎ出された。’
彼女の幻聴は,すでに歳月を経たものであり,容
易に消えることはないのかもしれない。今の時点で
どの程度苦痛なのかは定かではないが,かつての力
との遭遇の爪あとは,今では自己確認のよすがになっ
ている可能性がある。それゆえなごやかな時間が診
察室を浸していても,必ず最後に語られるのだろう。
病勢の激しい折に,この幻聴はきっと彼女を苦し
めたに違いない。そのときには彼女は幻聴を「聞いて
いた」のではなかった。そんな余裕はなかったはずで
ある。幻聴が到来するたびに,彼女の自己は解体し
ていたのだろう。しかし時が経つにつれて,彼女に
は幻聴が「聞こえる」ようになり,幻聴を聞いている
自分に気づくようになった。自己を与えるものに次
第に変貌していったのではないか。そうすると今で
は彼女の人格の芯のようなものかもしれない。
幻聴は彼女が病気について語る唯一の回路である。
彼女の中の異物として差し出し,それを通して治療
者とかかわりを持つことを可能ならしめている。そ
して力の傷跡を,医学といういささか特異な言語で
はあるが,医師とともに語ることにより,飼いなら
しているのかもしれない。意識がconscienceと呼ば
れるのは,他者とともにそれが可能になるものであ
ることを雄弁に物語っている。彼女は私に「聞こえた」
と報告することによって,自己を確認しているので
はないだろうか。
彼女はどこかでこの幻聴が消えるわけはないと
思っているのかもしれない。少なくとも今しばらく
は必要だと感じているようにも思える。そうだとす
ると,治療者が一生懸命症状を取ろうとしているの
はどういうことなのだろうか。彼女が治療者を欺い
ているとはとても思えない。その一生懸命さだけを
受け取ってくれているのだろう。そういえば,私自
身も処方を変えるたびに,めざましい効果はないだ
ろうなと,どこかで思っていたのではないだろうか。
彼女は医療のうさんくささに気づいている。それ
でもそのことは荒立てない。気づかずー生懸命取り
組んでいる私に,少しだけ委ねてくれているのだろ
う。けれどもまだ完全にまどろむわけにはいかない
のかもしれない。
おそらく統合失調症という病の治療には,差
異の回復ということが極めて重要な課題になる
だろう。そのとき,次のことを思い出してしか
るべきである。すなわち,自己を生み出す差異
とは,記憶の彼岸にあるものの,かつて他者が
私に与えてくれたはずのものである。
それゆえ基本は至極単純なものとなる。治療
者との間に,患者の自己があらたに回復するた
めの差異が拓かれることである。それは襞のよ
うなものかもしれぬし,シェルターのようなも
のかもしれない。もちろん実際には容易ではな
い。彼らは他者を恐れている。だが,退行しよ
うにも,そこには起源の力が待ち構えている。
彼らが安んじて退行できる場があるとすれば,
それは他者との間以外に見いだすのは困難なの
ではないだろうか。