現代社会が生む“ディスチミア親和型” 樽味伸

平明かつ実用的で、笠原先生の筆致に近いものを感じる。

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臨床精神医学34(5):687-694,2005
「うつ状態」の精神医学
現代の「うつ状態」
現代社会が生む“ディスチミア親和型”樽味伸

1.はじめに

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本邦におけるうつ病の病前性格の特徴については,下田が言及した執着気質,それに近いところでTellenbachのメランコリー親和型との関連がこれまで指摘されてきた。

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几帳面,仕事熱心,過剰に規範的で秩序を愛し,他者配慮的であるとされるこの気質・性格は,もともと日本人全般の自己規定に近いようであるし,また確かに本邦のうつ病者の一側面を言い当てていたようにも思われる。几帳面で配慮的であるがゆえに疲弊・消耗してうつ状態に陥る彼らは,一般的には抑制症状とともに強い自責感や罪業感を表明し,ある種の悲哀感を診断者に惹起させることが多い。ここで彼らの示す傾向を「メランコリー親和型」と大まかに括っておく。

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注1)Tellenbachの「メランコリー親和型」概念は,周知のごとく「内因性」概念を再生させ,今で言う遺伝子環境相関の視点まで含む壮大な論を成しており,単なるうつ病の病前性格論にとどまらない深度と射程をもつ。しかし本稿でその概念を十全に機能させることはもとより不可能である。本稿で「メランコリー親和型」と言及する場合は,基本的には本文冒頭のようなごく表層的把握を中心とした指示内容とする。

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一方,昨今の裾野の広がった精神科一般臨床においては,上記の特徴に合致しない「抑うつ」の人々が多く現れ始めたように思われる。すなわち,執着気質やメランコリー親和型の連関を,われわれに連想させにくいような一群である。確かに彼らは「うつ状態」を示し,またそのような状態であることを自ら表明する。しかし彼らはもともとそれほど規範的ではなく,むしろ規範に閉じこめられることを嫌い「仕事熱心」という時期が見られないまま,常態的に「やる気のなさ」を訴えて「うつ状態」を呈する。この特徴は,冒頭の「メランコリー親和型」の人々に比し,より若年層に見られるような印象がある。多くの場合,彼らは自責や悲哀よりも,輪郭のはっきりしない不全感と心的倦怠を呈し,罪業感は薄く,ときに他罰的である。しばしば診断者の裡には,受療者に対する悲哀感よりも「とっかかりの無さ」の感覚が先に立つようである。

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本稿では,彼らのそのような様態を「ディスチミア親和型」と呼ぶこととし,その臨床面での特徴を記述しようとする。そのうえで概念の意義を検討し,そのような症候に影響を与えうる社会文化的要因について若干触れることになる。

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2.症例呈示および概括

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ことさら新たな概念を提唱することの意義については後述することにして,まずは本稿で対象とする人々についての具体的な像を,自験例をもとに症例呈示の形式で記述したい。ちなみに各例とも,回避性人格障害,分裂病質人格障害および自己愛性人格障害の診断基準)は満たしていない。またプライバシー保護の観点から,細部を変更している。

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[症例1] 24歳男性,地方公務員(初診時)
主訴:やる気が出ない,不眠。
生活史:家族歴,既往歴に特記すべきことはない。長男であり,2歳上の姉が1人いる。父親は会社員,母親は専業主婦。中学,高校と特に問題となるようなことはなかったが,嫌いな教師の科目はわざと勉強しないことがあったという。大学ではサークル活動とアルバイトを「人並みに」こなしていた。就職活動にはそれほど熱心ではなく,公務員を目指した。大学を卒業後,1年間は専門学校に通い「たまたま受けたら合格した」地方都市の役所に勤務している。

現病歴:採用後から配属された現在の職場では,仕事は特に嫌ではないが,あまり興味も持てないという。ただ「うるさい上司がいて顔を見るのが嫌だった」ので,時々欠勤していたとのこと。ただし憂うつで出勤できなかったわけではなく,欠勤中はパチンコに行ったり映画を見に行ったり自由に過ごしていた。就職して1年が経ち,職場の同僚女性と恋愛結婚した。すぐに第1子が生まれた。仕事には相変わらずあまり身が入らず,かといって家にも居づらく,1人でパチンコや映画館に行っていた。育児は大変だったが,退職した妻や両家の母親が上手に切り盛りしてくれた。その年末に,勤務態度を上司に叱責された。これまでにも数回注意されていたが,今回は非常に厳しい口調だったという。そのあと「体調不良なので」と職場を早退した。本人によれば,その日から夜眠れなくなったという。その後はきちんと出勤したが,職場ではやる気にならず意欲が湧かず,仕事内容もどうでもよくなりイライラしていた。忘年会や新年会などの職場の集まりにも出る気がしなくなった。パチンコをするときに少し元気は出るが,家に帰ると「おもしろくなくて」再び暗く沈んでしまう。そのため約1ヵ月後,上記の主訴で近医精神科クリニックを受診。DSM-IVにおける大うつ病エピソードの基準を満たし,うつ病と診断された。その場で本人は診断書を希望した。

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[症例2]23歳男性,大学4年生(初診時)
主訴:何もしたくない,胃部不快感と下痢。
生活史:次男であり2歳上の兄が1人いる。父親は会社員,母親は専業主婦。本人は中学,高校とも成績はよい方だった。しかし大学受験に失敗し,1年間浪人。このときは気分の落ち込みなどは自覚されなかった。あまり勉強はしなかったというが,翌年に現在の大学に合格した。もともと第1志望の大学だった。本人・家族とも精神医学的疾患を指摘されたことはない。

現病歴:大学進学時から,親元を離れてアパートで1人暮らしを始めた。「勧誘がしつこくて嫌だった」ので当初からサークル活動などはせず,家庭教師のアルバイトを時々する程度だった。勉強は「留年しない程度に」単位を取得し,進級していた。大学には,同じ高校から進学してきた友人や予備校時代の仲間が数人おり,彼らとのつきあいが中心だった。大学4年に進級し,卒業論文を書く準備を始めた。資料を集めたりしていたが,特に無理のかかるペースではなかったにもかかわらず,6月頃から徐々に「やる気がなくなった」という。だんだん何を書けばよいのかわからなくなり,指導教官に相談に行ったが「あまり相手にしてもらえなかった」ので,そのときから研究室には「もう行きたくなくなった」という。7月頃には胃部不快感,吐き気や下痢が続くようになった。8月中旬に実家に帰ったが,ちょうどその頃,兄も突然仕事を辞めて帰省してきて「居心地が悪かった」ので,すぐにアパートに戻りテレビゲームばかりしていた。8月下旬には就職の内定をもらったが「別にどうでもよかった」という。このころから寝付きも悪くなった。卒業論文は手をつける気にならず,所属講座のゼミナールや研究会も欠席し,自室で過ごしていることが多くなった。9月下旬に,心配した教官が,ゼミの学生を迎えに行かせ,その学生が本人を大学保健室に連れてきた。保健師は精神科医の面接を受けるように勧め,翌週,保健室の精神科医診察日に来談した。「僕はちょうどこれに当てはまります」と,彼は内科医院でもらってきた「うつ病」のパンフレットを出した。淡い希死念慮とともに,確かに症候学的にはDSM-IVにおける大うつ病エピソードの基準を満たしていた。

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[症例3]29歳女性,無職(初診時)
主訴:不眠,やる気が出ない,体がだるい
生活史:長女であり,3歳下の弟がいる。弟は高校卒業後,内装業に携わっている。父親は公務員,母親は更年期障害で1度だけ精神科受診歴がある。本人は,中学時代から周囲になじめない感じが強く「醒めていた」という。成績は中程度だった。高校進学後も少数の友人とのつきあいがあるぐらいで,騒いでいる同級生を見るといらいらしていたという。地元の短大に入学し,映画サークルで脚本を書いたりしていた。卒業後は,1年に数カ月ほどアルバイトをする程度で,正式に職に就いたことはない。現在も自宅で4人暮らしである。半年前に婦人科で月経前緊張症候群といわれた。これまで精神科受診歴はない。

現病歴:書店で半年ほどアルバイトをしていたが,忘年会の席で「カチンとくることを言われて」辞めてしまい,この1年ほどは何もしていない。ときに母親から「ちゃんと働きなさい」と言われるのがつらい。数年前から,盆や正月に親戚からも「ちゃんと働くか結婚するかしなさい」と言われるので嫌だった。母親から勧められて求人情報誌を見ても「やってみたい仕事がない」。そうこうするうちに「もうすぐ30歳になるのでなんとかしなければ」と思い始めた。それとともに入眠困難と早朝覚醒が出現し,体がひどくだるくなった。なにかしてもすぐに疲れやすく,やる気が出ない。「なんだかすべてがどうでもよくなって」こんな毎日なら生きていても仕方がないのではないかと思い始めた。カッターで数回,手首を切ってみたが「どうということもなかった」という。体のだるさが続くため,婦人科ついで内科を受診したが,検査上は問題なかった。内科の医師から「うつ病疑い」にて精神科受診を勧められ,自宅近くの精神科・クリニックを紹介受診した。なお,本人はすでにインターネットの一問一答形式の精神疾患診断サイトで「うつ病の疑い80%以上。休養を要する」という「診断結果」を手にしていた。症候学的には,DSMIVにおける大うつ病エピソードの基準を満たしていた。

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上記の3例をはじめ,彼らには受診時の訴えや現症などに共通点が多い。受診時には「やる気が出ない」という抑うつ感とともに,「どうでもいい」といった心的倦怠感を多くが表明する。他覚的にも確かに消耗した表情であり,活気があるとは言えない。ただし発語のリズムや思路に,抑制症状はそれほど見られず比較的よく話し,口調も平板ながらしっかりしている。内省的に考えるのは面倒なようであるが,その「内省が面倒であること」は抑制症状とは異質な印象が強く,そもそも「内省」という心的動作に「不慣れであること」のように見受けられる。自身が話したい話題や出来事については,比較的細かく親切に話してくれるところも,通常の抑制症状には見られない点である。メランコリー親和型において観察されるような自責感や罪業感は基本的に薄く,またあったとしでも「どうせ」私が悪いというような,自責よりも「自虐」の感覚が伝わってくる。つまり自傷と似た根を持つような印象である。睡眠や食欲の乱れは認められるが,もともとが安定しない昼夜のリズムや食生活であることも多い。

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本稿では,このような臨床像を持つ「うつ病」に対して「ディスチミア親和型(うつ病)」と大まかに括る。すなわち①メランコリー親和型には近似しにくい経歴を示し,②輪郭のはっきりしない不全感と心的倦怠を中心に呈し,③抑制症状や罪業感に薄く,回避行動が主体でときに他罰的であり,④しかし大うつ病診断基準を満たしている,(⑤気分変調性障害と診断するには,罹病期間が短すぎる),という像である。ちなみにディスチミア(dysthymia)の語は,字義とおり「不機嫌」「活力に乏しい」という表層的ニュアンスでのみ使用している。疾患としての気分変調性障害(dysthymic disorder)との関係については後述する。なお,粗雑ながらメランコリー親和型との差異を表に示しておく。

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3.何のための新たな概念か

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本稿で新たな概念を呈示するのは,主に臨床的要請からである。その要請は2点に分けられる。それは①臨床場面での治療者のため,②生活場面での受療者のため,である。

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現在,操作的診断基準に準拠することを要請されるわれわれは,好むと好まざるとにかかわらず前項の症例に対しては「うつ病(大うつ病エピソード)」と診断することになる。呈されている症候は確かに抑うつ症状である。彼らの訴えをそのまま診断基準に当てはめるならば,基準を満たしている以上,彼らは「うつ病」である。しかしここにつきまとうのが「はたして彼らを「うつ病」とするべきなのだろうか」という診断者の戸惑いであろう。例えば彼らを,メランコリー親和型を中心とするような従来のうつ病と同一範躊に入れることに,診断者によっては,何らかの抵抗を覚えるかもしれない。そのような治療者の裡でおこる抵抗は,ともすれば臨床場面で彼らに対する“皮肉な視線”として析出してしまう場合がある。そのような“視線”は,本来なら疾患分類に関する学問的論争に向けられるべきものであって,少なくとも臨床場面において受療者に向けられる筋合いのものではない。したがって,その抵抗は治療者のためにはならない。もしも診断枠で[うつ病]とせねばならないならば,あえて「うつ病」の枠内に,メランコリーとは別の領域を耕しておく必要がある。これが①である。

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注2)診断者の好みを排することで診断の標準化と客観化が達成される。それがDSMシステムの理念である。
注3)診断者の覚えるこの抵抗の1つは,ごく表層的な表現をするならば,「せめで“神経症性”の文字を病名のどこかに挿入したい」というものである。「神経症」関連病名がDSMシステムから排されて,すでに四半世紀が経つ。

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表 ディスチミア親和型うつ病とメランコリー親和型うつ病の対比

 ディスチミア親和型メランコリー親和型
年齢層青年層中高年層
関連する気質スチューデント・アパシー
退却傾向と無気力
執着気質
メランコリー性格
病前性格自己自身(役割ぬき)への愛着>
規範に対して「ストレス」であると抵抗する
秩序への否定的感情と漠然とした万能感
もともと仕事熱心ではない
社会的役割・規範への愛着
規範に対して好意的で同一化
秩序を愛し,配慮的で几帳面
基本的に仕事熱心
症候学的特徴不全感と倦怠
回避と他罰的感情(他者への非難)
衝動的な自傷,一方で“軽やかな”自殺企図
焦燥と抑制
疲弊と罪業感(申し訳なさの表明)
完遂しかねない“熟慮した”自殺企図
薬物への反応多くは部分的効果にとどまる(病み終えない)多くは良好(病み終える)
認知と行動特性どこまでが「生き方」でどこからが「症状経過」か不分明疾病による行動変化が明らか
予後と環境変化休養と服薬のみではしばしば慢性化する
置かれた場・環境の変化で急速に改善することがある
休養と服薬で全般に軽快しやすい
場・環境の変化は両価的である(時に自責的となる)

(文献18より,一部修正のうえ抜粋)

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②は①と表裏一体の要請である。症例呈示で示したように,多くの場合彼らは,さまざまな媒体を利用して自身の症状を調べ,受診前からすでに,自らが抑うつ圏内にあると知っている。われわれ医療者がさまざまな媒体に流してきた疾患情報の多くは,わかりやすく操作的に定義されているから,基本的に彼らは「うつ病」に合致する。そのようにして診断情報に接しか彼らが次に目にするのは,やはりさまざまな媒体に流布されている,メランコリー親和型をもとにした従来のうつ病に関する治療戦略情報である。つまり「それは怠けているのではなく症状であり,元気を出せ負けるなと励ましてはならず,十分に休養をとらねばならない,適切な薬剤で改善する〈こころの風邪〉である」という文脈である。この情報が彼らを過度にミスリードするならば,もともと敏感な彼らの自己愛性格を,必要以上に磨きかねないし,それは長い目で見れば彼らのためにならないのではないかと思われる

注4)もしも比較的妥当な診断である気分変調性障害(dysthymicdisorder)の診断を用いるなら,診断のために2年を要することもある。しかも2年経った後に彼らに「あなたはもともと気分変調性障害を発病していた」と告げたところで,うつ病との違いを臨床場面で明確に説明することは,極めて困難である。よって受療者のためにも,「うつ病」の領域に,従来のメランコリー以外の領域を耕しておく必要がある。またその名称は臨床上の要請として,便宜上「メランコリー」に対置できるように,なるべく価値判断の絡まない,できれば無機質な用語であることが望ましい。

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以上が,新たな概念を呈示する臨床的意義である。

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4.彼らに関するこれまでの概念と背景

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これまでも“典型的でない”うつ病あるいは抑うつ状態に関して,いくつかの概念が提唱されてきた。呈示症例にみられる傾向を射程に持つものとしては,例えば笠原の退却神経症の提唱があり,また広瀬の逃避型抑うつ,阿部の未熟型うつ病の概念などが主なものとして挙げられる。本来ならば「ディスチミア親和型」を,従来の概念それぞれと差異化して記述すべきであるが紙幅の問題もあり,大まかに「ディスチミア親和型」の特徴を挙げるにとどめる。すなわち①これまでの病型で言及されていた「男性に多い」「高学歴」「過保護な環境」といった特徴は崩れており,性別・学歴・環境ともかなり汎化している。②特に広瀬が指摘する抑制症状よりは,回避行動が基本である。③躁状態や混合状態は目立たず,少なくとも病的状態としては把握しにくい。④笠原や広瀬の1980年代の記述と異なり,希死念慮がしばしば見られ自傷行為も少なくない。

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もともと上述の概念は,もちろん互いにさまざまに差異化されて記述されながらも,その名称前半部「退却」「逃避」「未熟」という用語に端的に示されるように,ほぼ共通してある種の弱力性の問題を鍵としてきた。基本的に「ディスチミア親和型」もその弱力性に沿った現れをしている。それは,葛藤を抱えておく能力に関する弱力性であり,葛藤を形成しうるだけの社会的役割意識に関する弱力性であり,ストレス対処能力やその耐性に関する弱力性である。ただし,その弱力性をさらに強調しても,それほど臨床的に有用であるとは思われないのでここで筆を留める。

*「葛藤を抱えておく能力に関する弱力性であり,葛藤を形成しうるだけの社会的役割意識に関する弱力性であり,ストレス対処能力やその耐性に関する弱力性」なるほど。

ぜひとも触れておかねばならないのは「前もって発症していた気分変調性障害に,大うつ病を併発した」という,いわゆるdouble depressionの概念と「ディスチミア親和型」の関係である。呈示症例をはじめとして,厳密には,彼らはまだ気分変調性障害ではない。まだ診断基準は満たさないし,一般に気分変骨陛障害と診断しうるような「くすんだ感じ」も彼らにはまだ見られない。彼らはvividとは言えないまでも,慢性化しか抑うつによって心的弾力性そのものを長期的に侵食されたかのような現れは,まだないのである。そして臨床場面に現れた彼らは,気分変調性障害の診断基準にも典型像にも合致しないまま,大うつ病エピソードの基準を満たすことになる。

注4)磨き過ぎてしまった自己愛を中和するのは,誰にとっても大変苦しいものである。抑うつ親和性をもつ彼らにとっては,なおさら苦行であろう。
注5)文脈からわかるように,本稿は〈すでに「うつ病」の診断基準を満たした彼らへの対処〉を主題としでおり,その枠としてDSMシステムを利用しているわけである。彼らが「うつ病」であるか否かについては,神経衰弱にまで遡る精神医学史的な検討も含めて,膨大な議論を要すると思われる。それは単に気分変調性障害と言い換えることで解消されるものではない。
注6)あえて付記するとすれば,例示した諸概念名称後半部はそれぞれ「神経症」「抑うつ」「うつ病」とされるように,それぞれの原型が一定しないことも指摘されうる。この,原型の捉え方の変動をどのように考えるかという点は,抑うつの異種混淆性とそれをめぐる治療論の歴史的変遷について,興味深い領域を開いていた。そしてそれが外的にDSMによって,表面上均質化され固定されたこともさまざまな意味をもつ。

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彼らの様態に関連しうる社会文化的背景については,症状としての罪業感の希薄化を中心に,別の所で述べた。要点をまとめるならば,社会的秩序や役割意識の希薄化か進行した環境要因が,彼らの症候に関係しているのではないかというものである。つまり秩序や役割への愛着と同一化が極度に薄く,逆にそういった枠組みへの編入が「ストレスである」と回避されるような,「個の尊重」を主題として育った世代が,社会的出立に際して呈する「うつ」の症候学的特徴ではないか,としている。ただし現時点ではそれはあくまで試論であり,ひとつの解釈に過ぎない。

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5.対応に関しての素描

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この概念自体がまだ若く不定型であるために,彼らへの治療的対処も予後の予測も,確定させて呈示しうるものはまだない。以下は印象をもとにした暫定的素描の域を出ない。

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呈示症例のような「ディスチミア親和型」に関して,休養と服薬を一義的に指導することが,常に治療的であるとは言いにくい。慢性的な休息は,場合によっては彼らの心的倦怠を助長するのみに終わることもある。そして「いくら休養して薬を飲んでもやる気が出ない」と表明する受療者に対して,治療者の“次の一手”が処方変更しかない場合,途端に治療者は追い込まれ始めることになる。市橋が記述している「非定型的な抑うつ症状を呈する青年」群は,本稿の対象者にある程度近似しうると思われるが,そこでも言及されているように,彼らに対する抗うつ薬の効果は,しばしば限定的なものである。

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一般にうつ病の治療においては,言明される苦悩に対して「うつ病」の診断を明示し,「その苦悩が症状であること」を告げて外在化させて見通しを告げ,それから休養を指示し抗うつ薬を処方するという,直線的な方策が中心である。しかし「ディスチミア親和型」においては,状況は錯綜する。彼らに「うつ病である」と外在化させるだけでは,彼ら自身はほとんど満たされない。満たされないまま,彼らは「うつ病」の枠内で,あたかも自身の(症状と言うよりは生き方の)空虚さを埋めようとするかのように,「もっと強いのはないですか」とさまざまな抗うつ薬を望み始めることになる。そこから,多種多様な抗うつ薬や抗不安薬の使用と併用が開始され,それはしばしば薬理学的彷徨の様相を呈することさえある。

したがって重要となるのは,その彷徨の途中に差し挟まれることになる,精神療法的補完作業であろう。目的は,彷徨そのものとそれによる彼らの心的弾力性の風化を,せめて遅らせるためである。ただし,具体的にどのようなスタンスが有効かという指針も,確定し得ない。一応,彼らが臨床場面に現れたときに,筆者が意識する暫定的な心得のようなものを以下に挙げることで,ご容赦いただきたい。残念ながら目新しいものはなく,精神療法と呼びうるほどのものでもなく,ありきたりの対処である。

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まずは当然ながら①チューニングとラポールの確立である。ただし人生全部を委任されないように気を配る必要がある。そして②心的弾力性の継続的評価であり,待合室の姿や足取り,表情や目の動きに現れる。それから③“主役は抗うつ薬ではなく,あくまで受療者自身である”ことの,ふとした時の確認である。そのうえで④本人が自身の選択で行動したり工夫してみたことをこまめに取り上げて,それがよかったこと(少なくとも悪くはなかったこと)を映し返す作業を続ける。端的には,誉めることで弾力性を刺激する。⑤抗うつ薬については「対症的なものに過ぎないけれど“下地”としてはあってもよい」くらいで考えるし,本人にもそう説明している。薬剤名も診断名も,なるべくその名前にまつわるハクを中和することに重点を置く。そのハクで彼らの人生が規定されかねないからである。プラセボ効果の活用とどう折合いをつけるかは,今後の課題である。

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注7)その彷徨を批判することは容易い。しかし,多剤併用を避けるべしという理念は理念として,現実の臨床場面では,やむにやまれぬ処方調整の粘りが重要な臨床行為であることも,また事実ではある。慢性的抑うつ状態に対する特効的対応がほとんど存在しない以上,薬理学的彷徨は,究極的には避けられないのかもしれない。
注8)悪気はないのだろうが,「うつ病」の枠内に人生上のあらゆる“うまくいかないこと”を詰め込んで治療者に引き渡し,抗うつ薬による解決を求められることさえある。どこまでが「生き方」でどこからが「症状」なのかが不分明なのは,彼らにとっても同じなのだろう。治療者の仕分け作業とフットワークが問われるわけだが,残念ながら極意のようなものはない。ただ,良好な関係が維持される中では,いったん治療者が背負わされたものを,いずれ受療者が引き取ってくれることもある。
注9)相手によっては,この確認をしつこいぐらいにした方が,おかしみを伴うので有効な場合がある。ただし「うつ病」の枠を求めていない受療者には不適切である。

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これらは,精神医学的診断として診療録に「Jugent Crise」や「ldentity crisis」と書くことができた時代には,もっと洗練された形で各治療者が普通に行っていたことかもしれない。

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6.おわりに

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精神科一般臨床において,執着気質やメランコリー親和型の連関を連想させにくい「うつ病」者,すなわち「ディスチミア親和型」について述べた。その臨床場面での特徴,概念の意義と社会文化的要因について略述し,その対処に関する筆者の暫定的見解に触れた。

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この「ディスチミア親和型」概念は,すでに述べたように臨床面の要請からであるが,以下に挙げるような学術的問いに開かれる可能性をもつ。すなわち①社会文化的次元における変動が,大うつ病の症候を変容させているのだろうか。それとも②彼らは将来的な気分変調症への素因と脆弱性をもった群なのだろうか。あるいは医療人類学的に,③精神科的医療のスティグマが希薄化し,抗うつ薬が席巻する文化圏において「私はうつ病である」という言明が,苦悩の慣用表現の地位をついに獲得したのだろうか,という問いである。

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規定も甘く未熟な概念を仮設することは,おそらく軽率の誹りを免れ得ないだろう。しかし慢性化しかねない抑うつへの臨床的な足場となるならば,そこに幾ばくかの意義はあるかもしれない。もちろん“母屋”である「うつ病」疾患概念の“改装”が過不足なく終了すれば,この「ディスチミア親和型」概念が不要になるのも,仮設の足場の本懐である。

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注)誉めるためには“権威”類似の物事が邪魔になるから,下っ端医者の形式で刺激する。それぐらいの方が,若い彼らも楽であろうし,自己愛の不健康な肥大を避けるという効果もありそうである。

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文献
1)阿部隆明,大塚公一郎,永野満ほか:「未熟型うつ病」の臨床精神病理学的検討一構造力動論(W.Janzarik)からみたうつ病の病前性格と臨床像.臨床精神病理16:239-248,1995
2)APA:DiagnosticandStatisticalManualofMentalDisordersthirdeditjon,1980
3)APA:DiagnosticandStatisticalManualofMenta】Disordersf1)urthedition,1994
4)江口重幸:精神科の敷居は低くなったか一精神科受診と「治療文化」の変容.こころの科学115:16-24,2004
5)HealyD:TheAnti-depressantEra.HarvarduniversityPress,Cambridge,1997(林建郎,田島治訳:抗うつ薬の時代-うつ病治療薬の光と影.星和書店,東京,2004)
6)広瀬徹也:「逃避型抑うつ」について.宮本忠雄編:躁うつ病の精神病理2,弘文堂,東京,pp61-86,1977
7)市橋秀夫:内的価値の崩壊と結果主義はどのように精神発達に影響しているか.精神科治療学15:1229-1236,2000
8)神庭重信,平野雅巳,大野裕:病前性格は気分障害の発症規定因子か:性格の行動遺伝学的研究.精神医学42:481-489,2000
9)笠原嘉:うつ病の病前性格について.笠原嘉編:蹄うつ病の精神病理1.弘文堂,東京,ppl-29,1976
10)笠原嘉:退却神経症という新しいカテゴリーの提唱.中井久夫,山中康裕編:思春期の精神病理と治療.岩崎学術出版,東京,pp287-319,1978
11)笠原嘉:退却神経症一無気力・無関心・無快楽の克服.講談社現代新書,東京,1988
12)Klein DN,Taylor EB,Hardjng K et al:Double depression and episodic major depression:Demographic,clinical,familial,personality and socioenvironmental characteristics and short-term outcome.Am J Psychiatry 145:1226-1231,1988
13)Nicher M:ldioms of distress:Altematives in the expression of psychosocial distress.A case study from South lndia.Culture,Medicine and Psychiatry 5-24,1981
14)下田光造:踊うつ病の病前性格について.精神誌45:101-102,1941
15)樽味伸「生きる意味」と身体性,行為,文脈-ある「ひきこもり」症例から.治療の聾9:3-13,2003
16)樽味伸:「対人恐怖症」概念の変容と文化拘束性に関する一考察一社会恐怖(社会不安障害)との比較において.こころと文化3:44-56,2004
17)樽味伸:診療行為と治療文化-その多層性ついて.こころと文化4:154,2004
18)樽味伸,神庭重信:うつ病の社会文化的試論-とくに「ディスチミア親和型うつ病」についてー.日本社会精神医学会雑誌13:129-136,2005
19)Tellenbach H:Melancholie.Springer,Berline,1976(木村敏訳:メランコリー(増補改訂版).みすず書房,東京,1985)

最近の事に関しては、http://shinbashi-ssn.blog.so-net.ne.jp/2008-05-11-1に記事がまとめてある。