境界例と社会

性格障害を誘発し易い状況というものがある。

それは苦しすぎる状況ではない。
苦しすぎるとき、性格障害にはならない。
うつになるし神経症になる。

規律がはっきりしている時、
たとえば、軍隊、体育会は病理の拡大を
予防してくれるかもしれない。
ただし神経症は増える。

それは自由すぎる状況ともいえる。
「本来の自分」を発展させればいいだけだと
繰り返して言われる
そして本来の自分は気あまりにも平凡で
表現しようにも発展させようにも
どうしようもない
だから最近は「自分探し」にむやみに時間を費やす。

もっともっと自分になれば自分の本質が持って出てくると言われる
しかし言われるほどには何も出てこない
出てくるのはつまらない昔だけである。
カウンセラーは果てしなく過去を聞きだし、
それはたいてい誰とも同じであるが、
完全な父親母親もいないし、
完全な友達もいないし、完全な兄弟もいない、
時には作話が混じり、それを信じ込んでくれるいい人がカウンセラーである。

結局針少棒大にするしかない。
わたしには何もありませんでは、商売にもならないし、
商売にならないことのいいわけにもならない。

さて、境界性人格障害の場合には、
自由と創意工夫が保証されている世の中で、
自由という無限定な培地の中で花開く、
一種の「退行である」
それは創造性ではなく退行である。

現代芸術と称して、退行を展示しているものがあり、
それはそれで興味深い。

境界性人格障害が最終的に幸せになっていれば、文句はない。
そんな例もある。性格は環境との関係で、幸不幸が決まる。
そうなると最終的な安定に向けて、すべては途中経過の苦難である。
だとすれば、それでもいい。40歳くらいまでには落ち着く。
教育費と住宅ローンが人格を安定させる。

しかし逆に、境界性人格障害者が幸せになっていないとしたら、
途中の一段一段も苦難の階段で、しかも最終局面も、苦難なのであるから、
いいことはひとつもない。

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一般に、ロールシャッハ的無限定的構造は今日では、
神経症と精神病の中間的な性格病理を持つ人に対して、
精神病的な要素をより一層発現させるように作用している。

では逆に、軍隊のように規律の厳しい社会では、
境界例は少ないものだろうか。
逆に、戦争神経症や軍隊神経症が出るものだろう。

ロールシャッハで出易い病理が、固い質問用紙になれば、出にくくなる。
そのように社会の仕組みを固くして、
社会全体の「無定形」から出現してしまうロールシャッハ時なものを
少なくしていく方法は可能であると思う。

治療の際に治療構造がやかましく指導されるのはそのせいもある。
治療においては、治療構造だけが現実だからだ。

現在子供はどのように育てられているか。
これは容易に推測できる話で、
点数がいい、順位がいいというはっきりした目標ではなく、
自分らしさを生きなさいといわれた時に
「無定形な」現実は始まる。

実は人生は何でもありなので、
ずるずると無定形になってしまう。
そこでは人は容易に退行し、
古い防衛機制を繰り出し、
まったくもって非合理的な行動をしている。
それは赤ん坊の時に合理的な行動だったはずのものなのだ。

第一親が性格の病理を露出させてしまっている。
子供は困る。

会社もそうだ。
創意工夫を社員に求める。
来年度までの達成目標さえ、
個人に考えさせる。
リストラをすればいいと考えている上層部がいる限り、
その会社で「分別のある大人」「順番が待てる大人」を演じていても、
意味はない。

そんなことが「無定形」の素地になる。

上司がいうのだから逆らえない。
昔からこうして来たのだから、そうするしかない。
一生をこの会社で生きるのだ。
その方が、固い組織になる。

固い組織ではまたヒステリーや解離などが起き易い。
性格の病理と、どちらもどちらで、理想的な社会などはない。
ゆるい社会では性格の病理が起き易い。

とりあえずそんなことがよく言われ、書かれている。

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そのそもそのこの人たちの場合、口で何と言おうと、
長期的な利益と短期的な利益が相反した時、
短期的な利益を選んでいる。

衝動性、
とにかく今楽になりたい、
この不安を何とかしたい、

そんな短期の目標にとらわれて、
長期的には悪化させてしまっている。

短期の利益は現実を悪化させ、適応を悪化させている。
短期の利益が症状である。

治療者はそれを治すべきだと思うし、
患者はそれを適応だと思っている。

リストカットをどうしても頑張って治療すべき目標なのだとは
現在ではいい難い。
けかしは当然に治療目標だった。

きることもあるでしょう、
それで心が落ちつくんです、
他人に迷惑をかけないタイプの行動ですから、
ひとまずいいとして、様子を見ましょう、
などと治療者に説明された親は、
リストカットを治療しないで何を治療するのかと驚く。

何を治療する?
「洞察」である。
「自己認識」である。

なんとも八方塞なのである。