患者さんの言葉を聴いていていると、
例えば、平面に上に浮かんだ、ふわふわした雲のようなイメージが浮かぶ。
言葉で語れるのは、平面上の位置だけだある。
つまり、雲の影だけを語ることができる。
影の位置と変化については語ることができる。
しかし雲そのものについて、もっとくっきり、立体的に語ることはなかなかに難しい。
言葉をどんなに精密にしても、
依然として、平面内での指し示しなのであって、
上の方向についての描写はできない。
上の方向については、
ある種の超越になる。
これは科学ではなく、アートというもので、再現性もないし、追試もできないだろう。
しかしそのような心理現象に魅入られる人間もいるもので、
仕方がない。
そもそも、日本語にしても、英語にしても、
精神の変調を精密に描写する言葉は持っていないはずなのだ。
共有される言葉になるのならば、
それは共有されている体験であり、
だれもこんなにも恐れるはずはない。
共有されない体験を共通の言葉で語ることはできないはずである。
言葉で共有される体験ならば、
解釈可能であり、精神病と呼ぶほどのこともない。
ただの変調である。
語り得る変調。
しかし私たちは語りえない変調を扱う。
語りえないものだからこそ不気味なのであり、
異様なのである。
語りえないものを必死に語る。
それは比喩を用い、あるいは目の力で、表情の力で、
言葉の一段上の階層の理解・共感を探ることだ。
にじみ出る何かが、
言葉の平面状だけからは分からないはずの何かを
伝えてくれる。
このような一回限りのアートに似た体験は、
どう名づけたらいいのか分からないが。
これが精神療法なのである。