問い
次の論文から、ポストモダンとBipolar Spectrum
の関係についての仮説を抽出せよ。
*****
臨床精神医学31(6):639-647、2002
ポストモダンとBipolar Spectrum
内海健
1 はじめに一歴史的展望
現代の躁うつ病概念が定立されたのは、周知の
ようにKraepelinによる。彼は1883~1913年まで
の30年間にわたり、教科書の改訂を通して疾病
分類のたえざる更新を行った。今日的な躁うつ病
の概念か確立されたのは、その第6版(1899)に
おいでであり、早発性痴呆とともに二大内因性精
神病として位置づけられた。第8版(1913)にお
いては、より広範な領域が含められ、躁うつ病は
「一方にいわゆる周期性、循環性の病気のすべて
と、他方には単発的繰病、メランコリーといわれ
る病像の大部分と少なからぬ数のアメンチアを含
む。さらに周期的あるいは持続的な軽い気分変化
を含むが、その一部はより重篤な障害の前駆とみ
なされるものであり、その他は体質と明確な境界
なしに移行していくものである」と規定された。
のちに事後的に一元論とされる立場である。
Kraepelinの包括的概念はその後長らく支配的
であったが、1950年代になってWernicke、Kleist、
の詳細な分類の流れをくむLeonhardが、
monopolar/bipolarの二分法を採用したのを端緒
に、AngstやPerrisらの研究によって単極性
(unipolar)/双極性(bipolar)との二元論が一般的
とされるようになった。とりわけわが国に影響が
あったのは、Tellenbachの大著『メランコリー』
である。その中で彼は、エンドン概念を練り上げ
ることによって、従来の内因性/心因性という二
者択一的発想を止揚するとともに、メランコリー
親和型性格という病前性格を抽出しつつ、人間学
的状況論を展開した。その洗練された精神病理学
的思考に加え、下田の執着性格が再評価されたこ
ともあずかって、わが国では<メランコリー型-
単極性うつ病〉が感情病において特権的位置を占
めることとなった。加えて状況論は病前性格一発
病状況にとどまらず、発達史、経過、予後、治療
を含めて多次元的に統合され、精神病理学のある
種の理想型を現出せしめたかのように思われた。
その一方で、北米においては、1970年代に
FieveやDunnerがうつ病相と軽躁病相をもつ
気分障害を双極II型障害とすることを提唱し、二
元論の分類に疑問が投げかけられた。この流れを
主導したのがAkiskalであり、彼は抑うつ神経症
に双極性の気分変動を認めたことを端緒として、
感情障害の中にdysthymia、cyclothymia、双極Ⅱ
型障害といった推移を認め、1983年にbipolar
spectrum概念を提出した.またsubaffectiveな
いしsubsyndromalな現象を重視するとともに、
さらには気質概念を再評価ずることによって、包
括的な疾病論を展開した。
Akiskalは自らの立場を「新クレペリン主義」
と名づけたが、包括的一元論と細密な分類、およ
ぴ気質への連続的移行を認める立場はその名にふ
さわしいだろう。ただ、彼の発想は、健全な循環
気質者にありがちな、たえず拡張を志向しつつも
結局は伝統回帰的なものに落ち着くというたぐい
のものである。実際、彼自身「哲学者がプラトン
に追記することしかできないように、精神医学者
はKraepelinに注釈を加えることしかできない」
とまで言い切っており、師Kraepelinにならうか
のように、彼自身もたえざる改訂を今日まで続け
ている。ただ、1999年当時の分類にみる
ように、より網羅的になってはいるが、理論的深
化というものはみられず、煩瑣に流れていると言
えなくもない。
一方、わが国の日常臨床においも、bipolar
spectrumの重要性は近年急激に高まっている
が、かつて〈メランコリー型一単極性うつ病〉
についてなされたような包括的な病理論・治療論
はほとんど提出されていないのが現状である。も
ちろん、往時、1つの範例があったことは、bipolar
spectrumを論ずるにあたっても有利な点であ
ろう。だが、現時点まで、メランコリー型に対置
しうるほどの類型は提出されてこなかったのもま
た事実である。いささか結論を先取りすることに
なるが、このように明確なフォルムをもったもの
として取り出すのが困難なこと自体、bipolar
spectrumのあり方の一端を示しているように思
われるのである。本稿は、モダンとポストモダン
という観点から、bipolar spectrumをくメランコ
リー型一単極性うつ病〉と対照しつつ、病理論へ
の端緒を開きたいと思う。なお、本来は、メラン
コリー親和型性格と、執着性格ないし執着気質は
分けて考えるべきものであるが、論の都合上。両
者を「メランコリー型」の名称のもとに一括して
論ずることをおことわりしておく。
表 「発展するbipolar spectlum」
・双極1/2型:分裂双極性障害
・双極I型:躁うつ病
・双極I1/2型:遷延した軽噪をもつうつ病
・双極Ⅱ型:自生的で明瞭な軽繰病相をもつうつ病
・双極ⅡI/2型:循環気質者のうつ病
・双極Ⅲ型:抗うつ薬や身体的治療によってのみ起こる
軽躁とうつ病
・双極ⅢI/2型:物質ないしアルコ-ル乱用によっての
み起こる軽躁とうつ病
・双極IV型:発揚気質者(hyperthymic temperament)
のうつ病
2 メランコリー型の背景
1つの性格類型が、特定の歴史的および地誌的
背景の中できわだつことは、おそらく偶然では起
こりえぬことである。それゆえメランコリー型は、
彼らが生きた時代や社会のあり方を何らかの仕方
で反映するものであると推測してまず問題はない
だろう。
ただ、その際、メランコリー型のもつ意義は両
義的である。几帳面、秩序愛、対他配慮に代表さ
れるその性格特徴は、まちがいなく文化的に「正
の標識」とされるものである。執着性格もしかり、
下田自身が「他から確実人として信頼され、模範
青年、模範社訓、模範軍人などとほめられている
種の人である」とまで言い切っているように、
文化の正の側面を代表している。他方、言うまで
もなく、メランコリー型は疾病親和的性格である。
それゆえ精神科医がメランコリー型を把捉したと
きには、それらの正の標識はすでに失効しつつあ
り、その破綻が問題となっていたのだと言えよう。
メランコリー型は、ある意味で、すでに時代遅れ
になっていたのである。すなわち、メランコリー
型の両義性とは、ある時代を反映しつつ、同時に
その時代の終焉をしるしざすものであることであ
る。
メランコリー型に対応する時代とは何だろう
か。とりあえずそれを「近代」(モダン)と呼ぶこ
とには問題あるまい。問題があるとすればその近
代の性格である。
巨視的な把握からはじめるなら、近代とは、
Levi-Straussの「冷たい社会」/「熱い社会」と
いう分類を踏襲すれば、「熱い社会」の時代の側
にある。彼のいう「冷たい社会」とは未開社会に
該当するものであるが、未開とは社会形態の位階
を示すものではない。ただ、現在までの歴史の教
えるところでは、移行はもっぱら「冷たい社会」
から「熱い社会」の方向で生ずるものであり、逆
のパターンは知られていない。
単純化を承知でいうなら、「冷たい社会」とは
神話やトーテム、あるいは王のような強力な中心
をもって組織されるものである。その共同体の成
員は同一のコードを共有し、すべての出来事はそ
のコードを通して読み解かれる。それゆえ新規な
ことは起こらない。周期的にカオスの侵入(例え
ばカーニバルのような祭儀)によって秩序が転覆
されることはあっても、それは構造の安定化に資
するものでしかない。要するに極めてスタティッ
クな社会であり、成員の位置は構造の中で終始固
定されている。
「熱い社会」はこの強い構造から解き放たれる
ことによって生み出される。その性格は定かでは
ないが、それまですべてを回収し解消していた
コードがもはやその機能を十全には果たしえな
い、何らかの「過剰」が、歴史上のある時点で
「冷たい社会」から「熱い社会」への転換を促し
たと想定される。起源の神話や中心の権威が失効
する中で、図式的にいうなら、人は自由な「主体」
として解放され、過剰は「未来」という新たに創
発された時制へと振り向けられるのである。
近代を特徴づけるのは、まず第一に、この「主
体」の誕生である。それは、一方では、「単独者
の不安」、「存在の不条理」、「自由の強度性」と
いった主体化をめぐる新たな生の問題を突き付
け、分裂病親和的個体を生み出す淵源となるもの
であったと推測されよう。確かに人類史上
「近代」は分裂病と深い関連をもつ。だが他方、
メランコリー型の1つの原型と目される「プロテ
スタンティズムの論理」が誕生したのも、
Weber自身が記しているように「純粋に宗教的
な熱狂がすでに頂上を通りすぎ、神の国を求める
激情がしだいに冷静な職業道徳にまで解体しはじ
め、宗教的基盤が徐々に生命を失って功利的現世
主義がこれに代わるようになったとき」であり、
まさに近代への移行の中においてである。
近代を特徴づけるもう1つの指標は、「未来」
という時制の創発である。ここでいう近代に特有
の未来とは、行為に伴う予測された将来(avenir)
のことではなく、また終末論が説くような彼岸で
もなく、等質的に張り渡された直線でイメージさ
れるような、抽象的な未来(futur)のことである。
この未来もまた分裂病親和性をもち、木村の
「アンテ・フェストゥム」が示すように、主体化
のもたらす不安によって、もはや「事物のもとに
気楽に逗留できない(Binswanger)」個体が先駆
ける次元であった。ある時には、それは問題を先
送りにすることによって主体にゆとりを与えるも
のであり、またある時には焦慮の病理から分裂病
的破綻への道筋を準備するものともなった。
また「過剰」を吸収するために開かれた未来は、
単に問題を繰り延べるためのものにとどまらず、
人類にある種の「物語」の制作を促すものでも
あった。例えば「人類の進歩」、「プロレタリアー
トの解放」といったたぐいのものである。共同体
の神話や、王権といった中心を喪失した主体が、
新たに統整の原理として求めたのが、こうした未
来に向けての物語、未来から現在を意味づける物
語であった。この一種の進歩史観が与える時間性
は、なにも革命家や夢想家を排出するにのみ好都
合なものではなく、メランコリー型を醸成する格
好の培地を提供するものであったことは想像に難
くない。つまり、近代の「物語」を通俗化した形‘
で自らの道徳と科しつつ、勤勉をその職業倫理と
し、飛躍を好まず、漸進的に、一歩一歩着実に目
標に向かって精励する個体を生み出したのであ
る。
メランコリー型を特徴づける時同性は、このよ
うな未来の目標と一定の懸隔(=遅れ)を有した
中での上昇志向である。彼らにとっての危機的状
況とは、この目標がもはや達成される見込みのな
いときであり、そしてはからずも達成されたとき
である。もちろん遅れがもはや取り返しがつかな
いほどになれば病理的なもの、「レマネンツ」と
なるが。他方、遅れをとることは彼らにとって本
来的なあり方である。遅れはなるほど罪悪感の源
泉となると考えられるが、罪悪感すなわち「すま
ない」は、彼らの精励の原動力となる。うがって
みるなら、この罪悪感こそが、彼らの存在根拠を
与えるものであるといえるのかもしれない。メラ
ンコリー型にとって、物語とはあくまで成功する
までの物語である。だがこうした微妙な均衡の上
に立つ「生の戦略」が有効であったのは、おそら
く戦後20年ほどの間であり、精神科医に認知さ
れたときには、すでにそれは失効しはじめていた
のである。
3 ポストモダンヘの転回
メランコリー型は「近代」(モダン)を反映す
ると同時に、その終焉をしるしざすものであった。
しからばなぜ、日本と西ドイツの両国において、
この類型がきわだったのであろうか。このような
問いに正面から答えるのは無論困難である。ただ、
両国に共通するのは、第二次世界大戦という「最
終戦争」の敗戦国であり、ヒロシマとアウシュ
ビッツという「終末」を体験したことである。い
わば「歴史の終わり」に実際立ち会った国家であ
る。だが、ヨーロッパの戦勝国が「歴史以後の無
為」に立ち会ったのに対し、逆説的にも両国では
経済復興という目標が設定され、そのことによっ
て歴史自体が宙吊りにされ、「終わり」が先送り
されることになった。すなわち歴史の真空地帯
に生じた「終わり=目標(fin)」への奇妙な離隔
がメランコリー型の適応を可能ならしめた一つ
の要因として考えられるのではないだろうか。
だが、繰り返し指摘しておくが、メランコリー
型は疾病親和的性格である。すなわちそれは「人
類の前線」たる狂気への近さをもって示す、1つ
の「兆候」であったと考えられよう。この場合、
兆候がしるしざすのは、もはや論述から明らかな
ように、「近代(モダン)の終焉」である。実際、
状況論をめぐる議論がわが国で頂点を迎えた頃、
すでに飯田は性格防衛としてのメランコリー
型の有効性がすでに失われていることを指摘し、
マニー型の側により有利な適応の可能性を見いだ
している。また中井は執着性格者の倫理が目
的喪失により空洞化し、より硬直した者から取り
残されるとともに、そのあとに、より陶酔的、自
己破壊的、酪町的、投機的なものが到来すること
を予測した。ここで問題となっているのは、メラ
ンコリー型のうつ病への破綻ではなく、メランコ
リー型を経由した発病そのものの消失である。
メランコリ一型の失効をもたらしたとされるの
は、高度成長経済による目的達成=喪失、「勤勉、
節約、服従」といった通俗道徳の没落、価値観の
多様化、権威の失墜ないしその存在の不明確化、
などと呼ばれるものである。それは近代(モダン)
の終わりであり、まさに「ポストモダン」と呼ば
れるにふさわしい状況である。
ポストモダンという言葉を最初に明確に定義し
たのはフランスの哲学者、Lyotardである。彼
によると、ポストモダン時代は、ヨーロッパの再
建が完了する1950年代の終わり頃から始まった
とされ、それを特徴づけるのは「大きな物語の失
墜」である。「大きな物語」とは、すでに取り上
げた「人類の進歩」や「プロレタリアートの解放」
をはじめとして、「自由」という物語、「革命」と
いう物語、「人間の解放」という物語、「精神の生」
という物語であり、近代の人間にとって普遍的な
価値を与えるものとして、理論と実践を正当化す
る役割を果たしてきたものである。
実際、わが国では1970~1980年代にかけて経
済的「成功」が達成されるとともに、豊かな消費
社会が実現され、その中で記号のゲームに耽ると
いうポストモダニズムが支配的となった。同時に
成長の限界が予兆される中で、「成功」以降の物
語をもたないメランコリー型は決定的に失効
し、とりわけ都市部では、中年期以降の一部の症
例に、わずかにその跡をとどめることとなった。
ではメランコリー型に代わるものとしてどのよ
うな臨床事例が出現したのだろうか。確かに、笠
原-木村分類における「葛藤反応型」、広瀬の
「逃避型」を嚆矢として最近の阿部の「未熟型」
に至るまで、散発的に新しい類型が提唱されてき
た。だがそれらはメランコリ一型と対置されるほ
どの領域をカバーするものではない。実際、多く
の臨床家は、「ポスト・メランコリー型」ともい
うべき事例に直面して、戸惑っているのが現状で
あろう。その困惑から発想されたのが「逃避型」
であり「未熟型」であるが、注目すべきことは、
両者とも双極II型障害に分類されることである。
つまりbipolar spectrumの代表的疾患に分類され
ることである。ここから直ちに、ポストモダンを
代表するのはbipolar spectrumであると結論づけ
るのはもちろん拙速にすぎるだろう。だがメラン
コリー型に対し、明確な形というものをもたない
bipolar spedlumこそが、「大きな物語」の失墜し
た時代を反映する病態であると考えみる価値はあ
りそうである。
4 ポストモダンとBipolar Spectrum
この項で試みようと思うのは、メランコリー型
とbipolar spectrumに関する時代横断的な比較で
ある。それはMajor Depressive Episode対Bipolar
Disorderというような具合に、並列的に対置さ
れるものではない。また、ここでいうbipolar
spectrumは、単に単極性うつ病と双極性噪うつ
病の間に存在するものであるとか、単極性うつ病
にマニー型の要素が混入したというようなもので
はない。ここではポストモダンに親和的であり、
時代を代表する臨床類型ならぬ類型として想定さ
れるものである。「類型ならぬ類型」とは、すで
に指摘したように、類型(type)という概念自体
がモダンに属するものであるからにほかならな
い。Bipolar spectrumとは単に疾病分類的なもの
ではなく、臨床的には明らかに単極性うつ病と考
えられる事例にもその要素は含まれている。
Spectrumという発想に忠実に従うなら、純粋な
単極型うつ病は理念型にすぎないのであり、どの
事例も程度の差はあれ、幾分なりともbipolar的
ということになる。Akiskal自身のいうspectrum
はいささか凡庸な発想であるが、typeと対比する
とき、spectrumはモダンからポストモダンヘの
転回をはからずも示しているように思われる。
1.「大きな同一化」から「小さな差異のたわむ
れ」へ
「ポストモダンの精神」なるものがあるとすれ
ば、このように規定されるだろう。モダンの大き
な物語の失墜は、権威の失墜ないし不明確化をも
たらした。それに伴い、社会全般において大きな
同一化の物語が消退し、かわって小さな差異が散
乱する状況が生み出される。しかもその差異は、
Lyotardの言うように、容易に「共約可能」な
ものではなく、例えば知の領域では、異論、逆説、
係争の渦巻くような事態を出来せしめるものであ
る。社会や知をめぐるこうした状況が個人の精神
病理のレベルにおいても当てはまるとするなら、
大きな物語の失墜はメランコリー型の発達を
頓挫せしめる決定的な要因となり、気分障害のさ
まざまなバリアントを現出させるものとなるだろ
う。というのも、「メランコリー型」は社会的自
立を契機として、権威ないし権威的人物を内的に
摂取して良心=超自我として内面化し、それに応
えるべく、不全感に促されつつ努力を重ねる個体
として、性格防衛を完成させてきたからであ
る。もはや大きな同一化は困難であり、役割
同―性は彼らに鎧を与えるものとなりえない。こ
の役割という防波堤がないために、bipolar
spectrumにおいてはいったんdemoralizationが起こる
と、その進行はおどろくほど急速である。
統計的資料の裏づけはないが、臨床場面で出会
ううつ病の発症年齢は若年化しているように思わ
れる。そうした事例の病歴を振り返るとき、その
多くが同一化による社会的自立に失敗しており、
それが発症への端緒となっていることが比較的容
易に読み取ることができる。かつてメランコリー
型が成功した地点で、bipolarspectrumは蹟くの
である。
2.正統(orthodox)から辺縁(marginal)ヘ
メランコリー型は、その標識が文化的に正の価
値をもつことから明らかなように、モダンにとっ
て正統な(orthodox)な位置を占めるものである。
そのことは、すでに引用したように、1つの範例
として考えられる「プロテスタントの倫理」が示
すところでもある。正統とはまた、権威に対する
位置のことでもある。秩序志向、伝統回帰といっ
た彼らの心性は如実にそのことを示している。そ
れは、マニー型が、権威に対する両価的な構えを
とり、時に躁的防衛によるチャレンジを試みるの
とは対照をなす。
もう少し突っ込んで考えるなら、メランコリー
型の正統とは、いわゆる嫡子のポジションではな
い。権威との関係は、父一子のような個と個の相
うつものではなく、抽象的な権威、いわば「大文
字の審級」との間のものであり、普遍に対すると
ころの個の関係、すなわちあくまでone of them
としてのものである。このことによって、メラン
コリー型は父性との問題を彼らなりに乗り越えた
わけである。つまり正統とは、中心に対する適切
な距離を有することにほかならない。その位置に
おいて、彼らは彼らのささやかなテリトリーを形
成し、その中で落ち着くのである。
これに対して、bipolar spectnmlは辺縁に位置
する。Marginalなポジションをとるのが特徴であ
り、文化的には負の標識を帯びる特性が目立つ。
こうしたあり方は、マニー型の権威に対する態度
とも異なる。というより権威という問題設定自体
を回避する。垂直軸ではなく、横へのかるやかな
動きを志向する。Bipolar spectrumはマニー型以
上に、停滞性(インクルデンツ)を嫌うのであり、
常に外への通路を確保しようとする。実際、しば
しば彼ら彼女らはsubcultureあるいはunder-
groundcultureとの親和性をもつ。通俗性や伝統
を好まず、独創性を求める。メランコリー型が極
めて独創性に乏しいのに対し、bipolar spectrum
は感情病の中で特権的に高い創造性を有する。付
け加えるなら、病像が変化に富むこと、またcomorbidity
が高いことも、marginalityと関連があ
るかもしれない。
治療関係に関しても両者の差異は明白に反映さ
れる。多くの場合、メランコリー型は医者一患者
関係にぴったりとはまり、sickroleという役割を
受け入れる。慢性化ないし遷延化のような特別の
事情を除いてはよい患者であり、没個性的で、
one of themすなわち多くの患者の一人という位
置をとり続ける。それに対し、bipolar spectrum
はそもそもが医者一患者というモダンの制度には
なじまない。しばしば強い印象を治療者に残すが、
生真面目に通院するとは限らず、いつのまにか来
なくなったり、忘れた頃に不意に訪れるようなこ
ともよくみられることである。自己治療への意思
が強く、また休息を是としない。何らかの事情で
入院した場合には、やはり病棟という枠の中には
まらない。ごく早期に退院したり、あるいは軽躁
へ転じたり混合状態を呈する中で、病棟の「秩序」
を大きく混乱させることになる。
このように両者はきわだった対照をなす。だが、
正統/周縁という分類自体、中心、すなわち普遍
性を保証する物語を想定したものであり、モダン
の発想の閾をでるものではない。Bipolar spectrum
のポストモダン性を正当に評価するなら、
それは「中心なき辺縁」という逆説的なトボスに
行きつくことになるのではないだろうか。それこ
そまさに「小さな差異のたわむれ」が創出する空
間というにふさわしい。
3.罪悪感から空虚感へ
ここでいう罪悪感や空虚感とは、個々の事例に
おける症候を指すのではなく、基本的な「感情論
理」のことを言う。どのような類型であるかにか
かわらず、感情病ないし気分障害に親和性をもつ
個体は、自己の存在に他者を不可欠の要素とする
ものである。言いかえれぱ「他者の承認」を必要
とする。メランコリー型の場合には、権威を良
心=超自我として内面化し、その審級の要求に応
えることによって、承認を得るという戦略をとる。
ごの「大文字の審級」は到達不可能なものである。
すでに述べたように、メランコリー型にとって、
一定の「遅れ」は本来的なあり方であり、それに
よる不全感や罪悪感を原動力として、尽力的配慮
が可能となるのである。それゆえ罪悪感は、発病
以前にも根本気分である。
それに対して、ポストモダンにおいて大文字の
審級を喪失したbipolar spectrumにとっては、
個々の現前の他者が、自分に承認を与える者とな
る。このことはしばしば発達史の早期からきわだ
つ。彼ら彼女らの多くは、幼い頃から親を気遣い、
その意図するところを汲み、そしてそれに応えよ
うとしてきた。あたかも自らめ甘えを断念して、
親を甘えさせてきたとさえ言えるような事例も存
在する。他人が何を考えているのかを読み取るの
に秀でているが、むしろそうせざるをえないとい
うつらさがまさる。この配慮は、それによってい
くらかでも報われているうちは、まだしも自分自
身の存在根拠を与えてくれるかもしれないが、多
くの場合、周囲はそうした配慮に対して無頓着で
ある。彼ら彼女らは相手や状況にそのつど合わせ
た対応を迫られ、振りまわされることになる。そ
の意味で「自分」というものがない。発病した事
例に問うてみれば、ほとんど例外なく、こうした
気遣いによる疲れと、その空しさを言語化する。
メランコリー型の場合は、たとえ役割同一性に
とどまるにせよ、揺るぎのない安定感を与える。
その場その場で態度を変更することは必要ない。
むしろステレオタイプといってよい。彼らにとっ
て他者とは、あくまで内面化された権威=大文字
の審級であり、personalなものではない。時に彼
らのimpersonalな対応はグロテスクにさえ映る。
彼らも大文字の審級に対して、その厳格さと寛容
さ、承認と否定、批判的と受容的といった両価的
感情をどこかに秘めている。だがそうした葛藤が
顕在化することは、高い達成によって承認を得る
限りにおいて巧妙に回避されている。
いくぶんシニカルな見方かもしれないが、罪悪
感は、それを抱く個体を善人にするという効用が
ある。すまないと言いつつ、罪悪感の表明によっ
て他者からの否定的な評価を先取りし、よい人と
して許されるのは日常生活の精神病理である。メ
ランコリー型は、発病してなお一層罪悪感を強め
る。これは大文字の審級に応えられぬことによる
当然の心理かもしれないが、常に「他のための存
在」でしかないという根底にひそむ空虚感をかわ
すものでもある。Bipolar spectrum事例もまた罪
悪感を表明する。しかしそれは有効な防衛とはな
らなず、早晩、空虚感に転ずる。それゆえ自殺の
リスクはびまん的に存在する。しばしば空虚感か
ら行動化がなされ、空虚感を埋め合わせるものと
される。いずれにせよ、罪悪感から空虚感へ移行
する中で、bipolar spectrumは気分障害の根源的
事態に直面しているのではないだろうか。
4.メタサイコロジーからサイコロジーヘ
ここまでメランコリー型とbipolar spectrumは
さまざまな局面において対照的であることをみて
きたが、治療にかかわる事項としては、対人関係
において、両者が鈍感と敏感の両極を示すことを
みた。加えて、自己の内面に対する態度もまた同
じような様態をとる。精神力動に関して、メラン
コリー型とbipolar spectrumは、抑圧を指標とす
るなら、それを中心として対称的な位置を占める
言える。
メランコリー型は自己の精神力動に全くと言っ
てよいほど気づかない。それは抑圧をはるかに通
り越して、否認や選択的非注意(Sullivan、Fromm-
Reichmann)とでも呼ぶべきものである。フロイ
トはいち早く「悲哀とメランコリー」(1917)の中
で、メランコリー者の自己愛性を指摘し、転移の
不能、ひいては分析療法不能を宣告した。この
「悲哀とメランコリー」はフロイトのほぼ唯一の
うつ病論であるが、彼が初めて抑圧理論を使わず
に精神病理を論じたものである。そしてメランコ
リーの転移不能性は、かえって彼をして対象関係
という問題系に気づかせるものであった。その後
もメランコリーは精神力動論にとってその限界を
しるしづけるものとして立ちはだかった。ほとん
どの理論は、早期における対象喪失を病理の起源
として措定する。しかしこれは抑圧のさらに彼岸
にある、メタサイコロジカルな外傷である。この
原初の断念は、決して明らかにされることはない。
明らかなのは、発症にかかわる対象喪失である。
すなわち二度目の喪失であり、ひるがえってそこ
から事後的に最初の喪失が措定されたわけであっ
た。そして現実の対象喪失は即自己喪失となるの
だが、ここでも患者自身は何を失ったか、徹底的
に気づかないのである。
それに対して、bipolar spectrumは極めて気づ
きがよい。他者に対するのと同様、気づきすぎる。
他者に対しては一種の心理戦の様相かあるが、た
いていの場合はひとり相撲となり疲弊する。他人
はそれほど敏感ではないのである。空虚感を根本
気分と言ったが、「ひとりでいられる能力」がな
いわけではない。ただ、他人の中に入ると、全く
モードの変わった自分になる。他人に合わせる能
力の高さゆえに評価されることもよくあるが、
「他者本位」からひとりの世界にかえったとき、
疲労と虚無感に襲われる。しばしばこの時点で、
過食(一嘔吐)やwrist cutが行われるようである。
こうした行動化は、極端な気疲れを忘れさせると
ともに、自分というものを取り戻す行為のようで
もある。
自己に関しても、気づきは患者を疲れさせる。
自意識が常に彼ら彼女らを追いかけてくる。例え
ばそれは、そのつど他人の評価を気にかけ、他人
に気に入られるように振舞う自分の偽善や自己欺
瞞をあぱきたて、さらにそうしてあばきたてる自
分こそが偽善家に思えて嫌気がさすような、そう
したいたましさを覚える様態に至ることさえあ
る。そこには抑圧の痕跡を認めない。幼児期のこ
とについてもしかり、父母との関係なども、生き
生きとした感情を伴って語られる。それらが陰性
感情を伴う場合でも、分析のような舞台装置がな
くとも、少し腰を据えて耳を傾ければ語られるの
である。ただ、確かにかつての父母との関係が、
現在の対人関係のあり方に影響していることはう
かがえても、現在の病態にどう関連しているのか、
つながりが必ずしも明らかではない。神経症のよ
うに、抑圧されたものが症状を産出するというよ
うな構造があるわけではない。また境界例のよう
に家族との関係を土台にして大きな物語を構成し
ようとすることもない。つまりそれぞれの、その
つどの関係ははっきりとしているのだが、断片化
しているのである。ここでも「小さな差異のたわ
むれ」が見いだされる。彼ら彼女らにおける抑圧
の不在は、あたかも大文字の審級の消失を物語っ
ているかのように思われる。
5 おわりに
本論文中においては、つとにメランコリー型の
両義性について指摘した。疾病にかかわるもので
ある限りにおいて、bipolar spectrumもまた両義的
であることには変わりない。彼ら彼女らの場合、
両義性とは、時代を映し出しつつ、時代の中で失
調していることだろう。「小さな差異のたわむれ」
の時代-いや時代という概念自体がモダンに属す
るものであろうが-ポストモダンを反映しつつ、
大きな物語の喪失という事態にいち早く感応し、
励起された病態なのかもしれない.そして<メラ
ンコリー型一単極性うつ病〉があまりにも正の標
識にかたどられ、ともすれば「悪」への通路、あ
るい躁のもつ、例えばデュオニソス的陶酔の世
界などへの豊穣な病理への通路を封殺し、病理の折
り目正しい半面のみを代表してきたとするなら、
bipolar spedrumは感情病ないし気分障害の新た
なパースペクティヴを開くものではないだろうか。
モダンは、矛盾を推進力とし、自らめ終焉さえ
もおのれのうちに組み込んで生き長らえてきた。
しかしbipolar spectrumの出現は、モダンが本当
の終焉を迎えたことを暗示しているのかもしれな
い