可能でありかつ不可能である。
可能であるのは、新しい言葉が生まれるからである。
あたらしい時代が生まれるからである。
カンチューハイ、氷結、プレミアムモルツ、
どれも言葉として新しくイメージとして新しく
その言葉を使うことにより、新しい短歌は可能である。
新宿のモード学園のコクーンタワー
ドバイの躁状態
チベットの混乱
四川省の地震
いろいろなことがある
だから短歌は可能である
一方、それらの事をどのように詠むかと言えば、
レトリックも感情の質も、出尽くした感はある
真に新しいものなど
期待できないだろうとも思う
そのあたりのことは昔から言われているわけだが
現代でも新聞に場所を確保しているので
廃れてはいない
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映像が簡単に扱えるようになった時代に、
そしてその方が他言語を使用する人にとっても理解可能であるという時代になってもなお、
日本語のリズムと意味にこだわる人たちというのは実に貴重だと思う。
現世の見返りを求めない、
純粋な楽しみとしか言いようがない。