一方は語りえないものを語り
一方は聞き得ないものを聞く
なんという困難だろう
語りえないことには沈黙せよという人もいる中で、
なおも試みること
これは言語というものに騎乗している人間の病理だろう
言語が語るとき、
その外側が必ず存在する
苦労してそこまでで語ったとすれば、
さらにその外側が存在する
宇宙のへりに行って、手を伸ばしたら、宇宙はその分拡がるけれど、
またその外側は常にある感じ
共有されない体験を伝えることは何という困難だろう
たとえば真珠を知らない人に
真珠を10万円出してでも買いたい人の気持ちを
どのようにして伝えられるだろう
よく考えて、10万円でいいと思うなら買いなさいとアドバイスするのは
誰でもできる
10万円は大金なのか
真珠はどれだけ美しいのか
またたとえば、黒真珠の輝き
黒真珠の魅力をどう伝えたらいいのだろう
真珠は一個一個違うので、
実際、ほれ込んだら、欲しくなるだろう
しかし値段に値するかどうか
よく考えて、自己責任で、そういったアドバイスは、
個人の体験の内側に踏み込んでいない
形式的なもの、いわば公式である
その人は何を体験してるのか
そのことを理解できるのか
理解できないとすれば
どうしてあげられるのか
語りえないものを語り
聞き得ないものを聞く
そうとしかいえない
共有できる体験ならば
語りあうこともできる
たとえば操作的に説明することもできる
六本木ヒルズの展望台で富士山を眺めているときに
震度5の地震が起こって、そばの壁の突起をつかもうとしたら、するりとすり抜けて、
7段の跳び箱を飛ぼうとして踏み切ったときに突然跳び箱が消えたような感じ
など
しかしそのような
比喩も、
操作的な追体験も、
不可能なものをいかにして伝達すればいいのか。
救ってもらおうにも、
相手はそれを理解しないし、知らないとしたら、
何と絶望的なことだろう。
地球の表面は限りがある。
すべてをグーグルの地図に収録できる
しかし体験と言葉の関係は常に体験の側に残余がある
言葉はいつも足りない
だから比喩などを用いて拡張しようとする
新語も造語もする
しかしそれは集団の試みであって
個人の体験を表現するものではない
鈍感であるなら、大雑把な表現で満足するだろう
新橋も銀座も日比谷も含めて、そこら辺だ。
しかし精密な理解をして欲しい人は、
日比谷でもない、銀座でもない、新橋という場所を指し示したいのだ。
そのための言葉が見つからず、
たとえもできず、体験してもらうこともできないとしたら。
その地点で精神科医と患者は出会っている。