精神療法と詩 患者さん主体の共同作業

精神療法の目的は
患者さんの心の形や仕組み(病理構造)を
自分の目に見える形に変換し、
自分で問題を取り扱えるようにすることにある。

その場合、やはり言葉が重要である。

多くの患者さんは、現在の自分の状態を言葉に表わせない。
もどかしく思いつつ、自分の心に忠実になればなるほど、言葉にできない。

言葉に表わすことができれば、そこから、
問題を解釈し、咀嚼し、操作できるようになる。

現在の自分の状態をぴったり言いあててくれる言葉はないものか、
それが患者さんの願いのひとつである。

治療者は、患者さん一人一人に、クリエイティブに対応し、
その現状を言葉で表現しようとする。
多くは比喩を使う。
たとえば、こんな感じですか。
たとえば、こんなことに似ていませんか。

もやもやした感情を
ぴったり言葉にできれば、
それは結晶のような固い物となり、
それを削ることも、割ることもできるようになる。

患者と治療者は、共同して、言語化に努力する。

それは、詩を書くことと同じプロセスである。

ぴったり言葉に変換できれば、
そこから、我慢もできるし、別な解釈もできるし、
忘れることもできるようになる。

共同で一篇の詩を書くこと
それが精神療法である。

しかし治療者が語りすぎてはいけない。
患者は引きずられる。
こころと言葉のずれを隠してしまい、
言葉に従ってしまう。
それでは治療的ではない。

共同作業であるが、患者さんが主体である。

治療者がスケッチがうまかったとして、
患者がスケッチのこつをつかまなかったら、
いつまでも依存して、一人では生きていけないことになってしまう。