予測と照合と実感

smapg-time-delay-modelといっても、
内容は言い古されたことで、
ただ具体的に
時間遅延の仕組みが自意識の成立と
その内容としての能動性の意識などを生み出していると言うに過ぎない。

普段の行動で言えば、
予測-照合-訂正のプロセスがあり、
結果としての訂正した世界モデルで、さらに次の瞬間の
予測をするというループが形成される。

これは昔から言われていたことで、
ほとんどどんな哲学者も前提にしていたようなものだが、
たとえば精神医学では台先生などがはっきりと書いていて、
その明確な論旨で我々は勉強した世代だから、
くっきりと影響を受けていると思う。

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たとえば食べることでも風呂に入ることでも人と話すことでもいいが、
何か食事になるものが目の前にあるとして、
それを食べたらどんな味がするか、
もっと細かくどんな程度の固さで、
匂いはどんな感じで、
熱さはどのくらいなのかをいつも予測して行動している。

予測がうまく当たれば、
「体験の実感」が生まれる。
モデルで言えば、予測情報が実際の体験情報よりも早く届いている。
実際は早くなくてかまわないので、
一瞬だけ早いように操作しているのだろう。

味と匂いと触感、熱感などは、時間として考えれば、
ずれて感覚されるはずで、
それを同時と感じるように時間係が調整しているのだろう。

そのようにして、体験の実感が生まれる。
それは能動性とも通じていて、つまりは一瞬は約手、予測が正しいということだ。

予測が正しければ生存の確率が高まるので、
それは良いことだ。
したがって報酬系と結びつくだろう。

予測が正しければ、「うれしい」と感じる。
その系統の報酬が「実感」とか「能動感」になっている。

コンピュータで作るときも、
実際に感覚入力を二つにまず分割して、
それぞれで処理をして、出力を比較、結果はどちらも外部世界と一致するようにして、
さらに、予測回路からの出力が一瞬早く感覚されるように調整すれば良い。
予測が正しければそれを報酬と感じ、
世界観は正しいと確信し、ますます自信を深めていく。
それが結局は自意識で、何のからくりもないだろう。

自意識と自動機械が二本立てであるのは、かなり無駄のようだが、
学習するときには二つが働くようにすれば、並列型のコンピュータになり、
都合がいい。

自動車を運転しながら、危険物を見張りつつ、
アクセルを踏みつつ、ハンドルを微調整して、
ニュースを聞きながら、別の事を考えたりしている。
並行処理の数と同じだけの数、回路は並行して動いているはずだろう。

予測して、照合して、実感を感じるなら喜び、
感じられなければ訂正する、
これを時々刻々繰り返しているのが神経系だと思う。

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物理学はまさに次の瞬間を予測するための学問である。
だから世界モデルものものである。
もうひとつは宗教。そして占いの世界。

その場合に数学モデルが活躍するのはどうしてなのか
かなりの謎で、カントが分からないといったのだけれど、
コンラート・ローレンツが、進化論的に解釈すればいいのだと結論を与えた。
それが正しいとわたしも思う。

カントは同時に自意識の不思議をあげたのだけれど、
われわれはその自意識の壊れ方を詳細に観察する立場で、
やはり原理として、時間遅延モデルでいいだろうと思っている。
内的世界があるように思うのは、
不思議でもなんでもなく、刺激の束を整合的に解釈して、
視覚、聴覚、その他の感覚、記憶、論理、そのあたりが整うようにしているだけだろう。

このように設定すれば、コンピュータで、
人間の意識とほぼ同等のものが作れるだろうし、
会話したり、愛し合ったりして、何の不思議もないものになるだろう。
と、かなり楽観的に期待している。

人間の知覚も論理も、
結局、物そのものには届かないのであって、
記憶を整合的に収納し、次の瞬間の予測ができればいいだけだ。
全体像が正しいかどうかなどは結局検証不可能である。
次の瞬間の予測ができれば生存に有利だというだけなのだろう。

たとえば、現代物理学でもいいし、キリスト教的世界観でもいいし、
タロットカード的な世界観でもいいし、
結果として予測が正しければ、いいのである。
それらが結局は一致するのだという楽観的な考えが
昔からあって、それは誰の反対も招かないから好都合で、今も生き残っている。
いいことだろう。

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音楽の楽しさも、かなりの部分は予測―照合―訂正のプロセスだろう。
もう訂正したくない人たちは、クラシカルな世界を好むし、
訂正したい人たちはジャズの生演奏を楽しみにしている。
しかし新しい解釈や新しい発見が常にあるわけではないので、苦しい。

そんなことがなくても、音を一瞬先取りして、
その予測が正しいと快感が生じるし、
予測をはずされたときも、心地よい訂正感であれば良いことだ。
予測が外れて不快であれば、それは不快な音楽ということになり、
現代音楽はかなりの不快を含むと感じているが、
それを不快と名づけないで、
予測外の音と解釈すればいいのだろう。

予測外の音を快感と感じるためにはやはりその音を予測するだけの世界観が必要で、
現代音楽の解説はそのような世界観の枠組を与える。
逆にそのような学習をしなければ、
予測は外れるようにできているのだ。
心地よさから外れるようにできている。

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絵画でも同じ事情である。
現代絵画は、心地よいと感じる前に学習しないといけない。
あるいは、単純な心地よさではなく、予測が外れた不快感を、
反省に転化したり、学習と位置づけたりして、意義を感じるようにできている。

時々おいしくないものが流行してすたれたりするのも、
予測をはずし、驚かせ、学習させて、世界観を訂正させているのだ。
しかしそれは外部世界の自然ではないから長続きせずに忘れられる。

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自転車に乗ることは、最初は意識的な学習であるが、
そのうち小脳という自動機械が代行してくれるようになる。

代行してくれれば楽なのだが、行為の実感は薄れてゆく。
人間は行為の実感が報酬系につながっているのでいつも実感を求めたがる。
それが新奇性の追求になり、ドーパミン系との関係が言われているあたりである。

慣れはやっかいだ。
慣れるということは、世界モデルが正しいことの証明であり、
いいことに違いないのだが、報酬は薄れる。

1回目、2回目、3回目と、
1001回目、1002回目、1003回目は違う。

配偶者に興奮しないのも無理はない。
たまには旅に出たくなる。

般若心経で色即是空、空即是色という。
瀬戸内先生は
あるものはない、ないものはあると大胆に言っている。

目に見える世界、それは空なのだという話は
よく納得できる。
我々は五感と記憶と知識と論理を整合させているだけなのだろう。
その意味で空である。

空である我々の認識が実は色である、現実の世界であるという認識もその通りで、
我々はそれ以外に世界を認知することはできないのだし、
予測と照合と訂正の束があるだけだと言える。
実在については知り得ないが、知り得る範囲内ではかなり正しい。

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脳が予測をする場合に、難しいのが他人というものである。
つまりもう一つの脳である。
脳は他人の脳を予測するときにどうするか、考えると、
その人間の中にひとつの世界が在ると考えざるを得ない。
外在世界はひとつだけなのに、
それを認知して世界モデルを作っている人間の内部モデルは
百人百様であり得る。
そのそれぞれを予測するのは
途方もなく負担であることはよく分かる。

他人がどのようにずれているか、なんとなく察知して、
ズレに対応しないといけないので、
外部世界に対応するのに比較してかなり骨が折れる。

物理世界はよく分かるのに、
人間社会にうまく適応できない人というのも
理解できる。

実際、その人は人一倍外部世界を知っているのかもしれない。
しかし他の全員の脳がずれている場合には、
同じようにずれていないと、機能しにくい。

これはどうしようもない。
天才が自閉性傾向があるとか、アスペルガーの傾向があるとか言われるのも、
このあたりの事情である。

他人の脳の気まぐれや誤動作を予測の範囲内に入れられるようになれば、
格段に生きやすくなる。
それが世間で言われる、大人の知恵というものだ。

自分の脳も誤動作をする可能性があるし、
他人の脳については増してや、何が起こっているのか分からない。
昨夜のアルコールがおかしな風に効いているかも知れないし、
セックスのときに微細な脳血管が破裂しているかもしれない。
傷つく事を言われて、世界観を訂正しようと必死に夢を見ていたかもしれない。
老化もある。
いろいろな可能性がある他人の脳というものは、
丸ごとひとつの外部世界に匹敵するのであって、
脳にとっては負担である。

しかしそれもやり過ごす方法がある。
究極の正しさなどどこにもないのだと
まず覚悟することだ。
自分が正しいと思うから許せなくなる。
脳は感覚の束を処理して、次の一瞬を予測する神経回路に過ぎない。

だとすれば、目の前にいる相手を、高次元で予測してしまえばいいのだ。
予想外であっても、予測のレンジを拡大すればいい。
誤作動しているなら、誤作動の癖を予測すればいいだけだ。

考えてみれば、他人の脳は、一つの物理系に過ぎないのだから、予測はできるはずだ。
自分の脳と同じだけ複雑で、
世界の複雑さと同じ程度の複雑さを持つ可能性があるが、
結局は世界の一部なのだ。

この種のパラドックスがときどきいわれるが、
結局脳は世界の詳細な写しではなく、
かなり省略したラフな写しに過ぎないということで解釈できる。

自分の脳も世界のコピーとしては解像度が悪く、
ましてや他人の脳については責任がもてないし予測できない。
そんな世界に生きているのだから、
そのように対応するしかない。

予測―照合―訂正のプロセスも、その程度に粗雑なものである。