ネット社会と現代人の心の悩み
第1章 ネット社会の特質
1-1 ネット社会の不安
ネット、携帯、ゲームなどが社会不安を引き起こしている。たとえば秋葉原事件、振り込め詐欺、出会い系、裏ハローワーク、殺人請負サイト、学校裏サイトでのいじめ、韓国での自殺、アメリカでのいじめなどいろいろな報告がある。こうして書いてみるとネットと携帯は「悪のゆりかご」の印象がある。共通項を次のように抽出できる。
A.匿名性
実は匿名性はすでに見かけ上のものである。しかし自分のことを書かれた個人にとっては、誰が書いたのかを知ることは、簡単ではない。被害を届け出る手続きが必要なので、実質的には匿名状況に近いとも言える。
そのような中で、発信側について言えば、現実のその人からは考えられないくらいの過激な言葉を書いていて驚かされる場合もある。現実人格とネット人格に段差があるのではないかと思わせる例もある。受信側について言えば、韓国での事件のように自分について書かれた言葉に絶望して、命を絶つ場合もある。ネット被害から自分を守る方法を学び、周囲は心理的支えになりたいものだと思う。
これについてはネットリテラシー教育が必要で有効であろうと思う。きちんと教育すれば大部分の人は分かってくれるし、たいていの人には、ネットの書き込みなどよりも楽しい遊びがあるものだ。
B.孤独
たとえば家族との交流がない場合など、いったん立ち止まって表現を考え直す機会のない場合には、表現が極端で断定的で過剰に他罰的になる場合があり、時に他人を傷つける。またときに他人からの一言に深く傷つく。いずれも、現実社会の家族や友人などの援助があれば、緩和されるはずのものである。発信者としては少しきついかなあと思うメールを発信する場合には一晩くらい待ってみた方がよいようである。人に相談できれば、なお良い。
携帯でいつでも連絡できるからなおさら、心理的な距離が遠く感じられて耐えられないことも起こる。連絡しても返信がないと気持ちが落ち込む。携帯がかえって深刻な孤独を引き起こしていることはありそうだ。
C.閉じこもり
不登校の生徒がたいてい時間を割いているものは、ゲーム、ネット、携帯である。これには次の二つのタイプがあり対処が異なる。
もともと対人関係の不全があり、学校に行きにくくなって、ネット社会に慰めを見いだした場合には、親が携帯とコンピュータを取り上げるとますます追い込んでしまう。
もともと対人不全はなく、ゲームにはまり込んで不登校になった場合には、ゲームとコンピュータを親が管理することで解決する場合がある。
D.ネットや携帯で特殊な仲間を見つける場合
現実の生活では知り合うことのできないような、珍しい趣味の人と知り合うことができることは、メリットでもあり、デメリットでもある。将棋が自分と同じくらい強い人を見つけられるのはネット社会のメリットである。自殺、殺人、その他に興味のある人たちが容易に見つけられるのは、ネット社会のデメリットである。
E.陰湿ないじめ。
これについては、日本と韓国だけではない。アメリカのティーンエイジャーについても報告があり、4分の3が被害を受けていると回答している。これについては対策が必要である。第一はネットリテラシー教育である。イタリアの少年に質問したら「うちでインターネットもするけれど僕はサッカーの方がいいな」と言っていたそうだ。イタリアにもいろいろな子どもがいると思うが、カトリック教会の関係とか家族関係のあり方とか、他人がどのくらい密に子どもに関わっているかの点で違いがあるのかもしれない。
F.性的暴力的情報
最新機器は男性の性的興味を刺激する面がある。一方、女性の場合には、各種メディアは痩せ願望を刺激するという面がある。子どもまたは抑制のきかない人に対しては、情報への接触を制限することも必要だと議論され、フィルターが工夫されている。また、内容についても、最近の男性はこの種の情報を通じて、性暴力について学んでしまうこともあるようで問題がある。より刺激の強いコンテンツを作るためにはそのような方向もあるのだろうが、結局は現実の性行動や対人関係を困難なものにしてしまうことがある。
G.子どもの養育に関する悪影響
小児科や学校教師が指摘している点は、まず育児において、テレビやビデオに育児をさせていることが挙げられる。これでは感情応答性がうまく育たない。小学生頃からはゲームに熱中することになり、これには親も手を焼いている。典型的には、夜更かしをし、朝寝坊になり、朝食を抜き、遅刻し、物忘れし、保健室登校し、不登校になる。そして本格的に一日中ロールプレイイング・オンラインゲームに打ち込むことになるらしい。このタイプものは終わりもなく続く。チャットの要素も入っているので、完全な孤独でもない。時々は主催者側のイベントが入り、退屈しない。参加者と共同の行動をとることがあり、そこにはオンラインゲームなりの人間関係ができる。これは現実の人間関係よりも薄く一面的なもので、従って、現実の人間関係で行き詰まった人にはすこしほっとできる場所であるとも言われる。
ゲームに熱中しているときの脳の働きを調べると、脳のきわめて一部分しか使っていないことが分かる。ゲームに時間をとられるので、共感性や社会性機能を発達させる機会が失われるといわれている。勉強と運動の時間がなくなる様子だ。
小さな子どもの場合に、ゲームをしている間、親がそばで一緒に画面を見て、親自身が感情応答をして見せて、子どもが反応したらそれに対して親が反応するというようにすれば多少はゲームの害を改善できるかもしれないとする提案がある。
1-2 歴史が浅い
まだ新しい道具なので、使う側で「使い方」を考えていかなければならない。たとえば自動車を例にとると、体調の悪いときには運転しないとか、自分で注意することも必要である。また、社会全体として、信号機をつけたり、交通違反を取り締まったり、免許証を交付するときに教育したり、様々な努力をしている。似たような努力がネット社会でも必要だろう。しかし情報は国境を越えて入り込むので、事は簡単ではない。
情報社会を決定づけたものがコンピュータとインターネットといわれている。現実の物質は移動していない。ただ情報が移動して、その逆に資金が移動していく。ネット上での株の売買などが典型的だろう。情報が動いているだけである。しかしそれでも現実に金銭が絡むこともあり、慎重な態度が必要である。
仮想空間では仮想の土地を買って家を建てて、友達をよんで、遊んだりできる。そのために現実のお金を使ったりする。仮想のお店を開いて、売り上げがあれば、現実のお金に換えることができる。我々が人生を生きるとはどういうことなのだろうかと考えさせられる。
1-3 情報ハイウェイ 将棋 翻訳
ネット社会は情報ハイウェイですいすい行ける。しかし降り口で大渋滞が待っていて、そこで個人の工夫が試される。
たとえば将棋の世界をとりあげよう。将棋に関しての過去の情報を手に入れやすくなっているので、誰でも勉強できる。自分と同じくらいの強さの人とネットで将棋することもできて、急速に強くなる。ここまでがハイウェイである。昔では考えられない環境でみんなどんどん強くなる。
しかしそこまでたどり着いてからあとが難しい。みんな同じことを勉強してきたので、差がない。強さも作戦も弱点も同じ。情報を共有しているから当然そうなる。そこから抜け出す方法は独自に工夫しないといけない。つまり情報ハイウェイを降りた場所で大渋滞が起こる。
また、たとえば翻訳の世界があげられる。昔より格段に調べものがしやすくなった。検索で一発だし、複数情報にアクセスできて、しかも最新版も探し出せる。間違いが複製されて固定されている危険もあるが、昔よりはずっと楽に検証できる。画像を探すこともできる。場合によっては、メールで作者やその周辺の人に問い合わせもできる。ここまでが情報ハイウェイであり、非常に便利である。
そうなってくると、あとは日本語を処理する能力になってくる。場合によっては省略もしたり、説明を加えたり、日本語出版物として、また読者層に合わせての、工夫が大切になる。そうなると外国語の知識はもちろん必要なのであるが、その後の日本語の能力がさらに重要になる。
外国語の意味を理解する能力と、商品として要求されるタイプの日本語を仕上げる能力と、どちらかといえば、前者は情報ハイウェイを使えば差がない。後者がむしろ差別化要因になっているらしい。最近の商業主義は、よい日本語や深い日本語よりも、速く読める日本語が大切なようで、これは業界の事情もある。
それぞれの業界に情報ハイウェイがもたらしたものがあるようだ。
第2章 ネット社会と自己愛
2-1 ネット社会と自己愛とひきこもりとディスチミア
ネット社会の特徴を現実社会に比較して言えば、「簡単、確実、早い」となる。これらの要素が引きこもりを生む。そもそも日本の社会は鎖国をしたことがあるくらいで引きこもりの伝統は長い。
簡単・確実・早いのネット社会では、苦労をしない、待たない、確実が当たり前になる。現実社会は不確定で、他人の事情に左右され、複雑で、遅い。思うとおりにはいかない。我慢しなければならない。従って、中にはネット社会のほうが安心して生きられるという人も出てくる。
「苦労をしない、待たない、確実、他罰的、我慢ができない」は、大量消費社会で自分が消費者としてサービスを受けるときの態度でもある。従って、お金があればサービスを受けることはできる。それ以外ではうまく生きられない。そこで引きこもって、ネット社会で生きるのが心地よい。
すると自己愛的傾向が強まる。他人に、早く、確実で、質の高い対応を求め、得られないと怒る。自分が要求しているサービスに見合うだけの料金は係の人には支払われていないことが多い。少なくともその人は払っていない。他人から見れば傲慢で共感性のない人になってしまう。
自己愛性性格の特徴は、傲慢、賞賛要求、共感不全である。このようなタイプの人は社会で生きていて生き生きとしているはずもなく、いつも悲観的で他人について批判的でネット社会に比較して現実社会にいらいらしている。それは長い時間の中でディスチミア(慢性持続性軽度抑うつ)かつ秘めた自己愛を形成する。このタイプの人が精神的肉体的に消耗してうつになったときは、ディスチミア親和型うつ病になる。
ネット社会が自己愛性格に親和性があると考えるが、同時に、情報化社会、大衆消費社会、少子化社会など、それぞれの要因が自己愛性格と親和性があると考えられ、総合して自己愛性格成分の増加として結果しているようである。
自己愛性格の人が増えると、たとえばクレーマーが増えるので、他人に対して警戒的にならざるを得ない。そのような対人関係のあり方が息苦しいと引きこもる人も出てくる。
第3章 うつ病の病前性格
3-1 性格成分の中で、変わるもの。
うつ病の病前性格について、笠原先生は「熱中性、几帳面、責任感、陰性感情の持続、対他配慮」とまとめている。
わたしはこれを「熱中性、几帳面、陰性感情の持続」と「対他配慮」の二つに分けて考えたい。前者は生物学的な指標であり、後者は社会的習慣の問題である。
昔は利他的対他配慮であったものが、いまは自己防衛的利己的他者配慮である。この部分の変化については、他者との関係の仕方そのもの、他者との距離の取り方もそのものに、変化が生じていると思われる。積極的利他的対他配慮をするということは、いつでも、報われない可能性を含んでいる。実際に報われなかったとき、かなりダメージを受ける。現代ではそのような利他的対他配慮ではなく、自分が傷つかないように、他者との距離をとっておくという防衛的な意味での他者配慮になっている。
ハリネズミの比喩で言えば、昔は針に刺されて痛くてもいいから、他人を温めたかった、現在は寒くてもいいので、自分が傷つきたくないし、相手を傷つけたくもない。昔は温かい方が大事、現在は針の痛みを避ける方が大事という印象である。
3-2 変わらないものは熱中性、几帳面さ、陰性気分の持続
これは生物学的指標であるから、変わらずにある。
一つの神経細胞に対する反復刺激を考えてみよう。キンドリング(てんかん)や履歴現象(統合失調症)のように、次第に反応が大きくなるタイプがある。これはManieと関係しているので、反復刺激に対して次第に大きな反応を返す特性を持った細胞をM細胞とする。
次に、反復刺激に対して常に一定の反応を呈する場合があり。これは強迫性傾向と関係があり、A細胞と名付ける。
反復刺激に対して急速に反応が減弱するタイプの細胞があり、うつに関係するので、D細胞と名付ける。
MADの三種の細胞特性がどのくらいの割合で分布しているかが病前性格の一部を説明する。現実には筋肉や内分泌腺は反復刺激に対しては比較的急速な疲労で反応するので、筋肉や内分泌腺と並行するくらいに疲労しやすい細胞が大半になると考えられる。マラソン選手の筋肉を支配している神経細胞は筋肉と同じくらい疲労には強いだろう。
一方、対他配慮は社会的成分であるから、社会のあり方と教育の結果であり可変的である。対他配慮が報われなくてエネルギーを使い果たし、結果としてうつになることはかつて多かった。それは社会の支配的な空気として、対他配慮が主な徳目であり、エネルギーを注入すべき対象であったからである。しかし最近は対他配慮の故に疲れ切るということは多くはない。むしろ、他人からの配慮がないから自分はうつになったと語っている。向きが逆になっている。
M細胞成分が強いものは双極性の性質を帯びる。BP(双極性気分障害)ⅠやⅡがこのタイプになる。BPⅠは躁状態+うつ状態、BPⅡは軽躁状態+うつ状態である。病前性格が循環気質で躁うつ病になったという場合、このタイプである。M細胞がぎりぎりまで反応している時期が躁状態様態であり、ダウンして機能停止すると、うつ状態となる。これを反復するのが特徴である。
社会全体が軽躁状態であるとき、BPⅡの軽躁状態は隠蔽されてしまうだろう。そのような事情もあって、明治時代から高度経済成長期に至るまで、BPⅡの場合に診断はむしろ単極性うつ病とされたものだろう。
パニック障害は、少しの刺激で、昔の脳回路が不適切に活性化してしまうもので、キンドリングや履歴現象と似ていると議論する人もいる。学習理論と関連づける人もいる。
A細胞が強いものは強迫性障害になる。メランコリー親和型うつ病はこのタイプである。反復刺激によりA細胞が疲れきって、機能停止する。そのときにはD細胞も疲労して休止しているので、うつ状態になる。M細胞が早く回復すると躁うつ混合状態にもなる。
M細胞成分とA細胞成分が相対的に少ないものはディスチミア親和型うつ病になる。自己愛性性格傾向とディスチミア(気分変調症つまりずっと続く陰性気分)、そしてディスチミア親和型うつ病がひとまとまりのものとして関係している印象がある。ディスチミアの人たちは、表面的には自分について自信をなくしているのだが、その内面には誇大的自我を持ち続けていることも多く、ときにそれが露出することが観察される。
執着気質はM細胞成分とA細胞成分が大きいものである。両者が機能停止し、機能停止と回復の時間的プロフィールによって、躁、うつ、躁うつ混合状態、さらにそれと強迫性障害の混合が見られる。
どの病前性格の場合であっても、反復するストレス刺激が持続した場合に、反応には限界が来て、まずM細胞が機能停止となり、次にA細胞が機能停止となる。その場合にうつ状態となるメカニズムは共通である。
治療はM細胞とA細胞の回復を時間をかけて待つこと、自殺を防ぐこと、再発を防ぐためにメカニズムを教育することである。
第4章 現代うつ病の特質
重複になるがまとめると、熱中性の強いBPⅠ、Ⅱ。几帳面成分の強いメランコリー親和型うつ病。熱中性も几帳面もないディスチミア親和型うつ病。どのタイプからも、昔風の対他配慮は失われていて、変質した自己防衛的利己的対他配慮が働いている。
昔は圧倒的にメランコリー親和型うつ病が多く、一部が循環気質から発展する双極性障害であった。現代では各種うつ病が分散的に発現していると思われる。それは病前性格の変化と関係している。個人の中でも自己愛性成分が増加し、社会全体としても、自己愛性成分が増加していると思われる。自己愛成分が増えるに従って、ディスチミア親和型うつ病の割合が増えているような印象を抱いている。ディスチミア親和型うつ病は若者に多く、軽症であるが、治りにくい。他罰的で逃避的、仕事よりもプライベートが大事。集団との一体化は希薄で、学校時代には不適応はなかったが、会社には不適応という例が多い。やる気が出ないと言い、自分を生かせる職場を希望する。役割に固執せず、むしろ自己実現を価値の中心においている。
最近、BPⅡが増えているような報告があるのであるが、いろいろな問題をはらんでいる。躁状態を抑制する薬や、躁うつの波を抑える気分安定剤の使い方が様々に議論されているのと時期を同一にしている。
第5章 子どものためのネットリテラシー教育
インターネットや携帯に関しての接し方をきちんと教育しようとの動きがあり、おおむね妥当な教育がなされている。自分が考えるインターネット・リテラシーについて記してみる。
5-1 発信側として
いずれにしてもネット上での匿名は一時的なものだと心得ること。個人的メールについては、言葉の多義性について注意するのが良いと思う。声も表情もなくても誤解が生じないか慎重になることである。言い過ぎは後悔のもとである。
5-2 受信者として
情報の真偽、発信の時期、情報の極端さとまじめ度を見分ける。
世の中全体の見取図が自分の内側にあれば、情報の極端さを評価できる。それは真偽とも好悪とも関係のないもので、ただ世界の全体の中ではどのくらい少数派か多数派かというだけである。しかしそのことをきちんと気にしておくことがいいと思う。オーム事件で学んだように、極端でかつまじめだったら、注意して扱う方がいい。