柔らかい場所を何度も繊細にたどりなおして励起させている。
その果てに見えるのは、
いつもの安定した診察風景である。
診察風景の重層的ラーメンバウを
忘れ去るまで意識すれば、
三度目に、いつもの安定した診察風景が始まる。
いずれにしても行為はひとつである。
その意味付けを更新し、廃棄し、冒険の後に、
いつもの風景の中で静かに生きている自分を発見している。
映画をくり返し見る感覚に近い。
私たちが今手にしている大切な共有物、
これもいつかの誰かのByproductだった。
*****
臨床精神医学34(12):1699-1707、2005
Byproductとしての精神療法
内海健
ある中年の男性が、家族に伴われて受診した。
抑制も強く、生気的な悲哀感情もある。それほ
ど迷うことなく、内因性うつ病と診たててよさ
そうである。悲観的な微小観念もあり、「情け
ない」、「迷惑をかけて申し訳ない」という苦悩
が重たい口から漏れ出る。休養してしかるべき
状態である。場合によっては入院した方がよい
かもしれない。
治療者は「うつ病」であることを告げ、仕事
を休むように指示した。しかし患者はなかなか
首肯しない。「これ以上迷惑はかけられない」、
「自分が働かないと家族が困る」とかたくなで
ある。
この半年あまり、患者の仕事は多忙を極めて
いた。折からの昇進もあり、責任も感じていた。
やりとりを重ねる中で、治療者は「働きすぎて
身体をこわしたのだ」といって、ようやく説得
した。
ごくありふれた診療場面といえるだろう。こ
とさら「精神療法」というほどのものでないか
もしれない。とはいえ、ここで展開されている
ことは、単なる問診による情報の収集、診断、
そして医学的な見解の伝達にとどまるものだろ
うか。そうではあるまい。
「働きすぎて身体をこわしたのだ」というこ
とばに着目してみよう。しばしばこうした局面
で使われる常套句であり、経験的には、大きく
事態を損ねることはまずない。うつ病に限った
わけではないが、特にこの疾患の場合、なるべ
く身体に近いことばの方が有効である。
いささか冗長になることを承知のうえで、こ
の発言をもう少し検討してみよう。まず内容は
どうだろうか。「働きすぎた」というのは事実
である。実際、この患者の場合、発病に前駆し
て過労状況があった。ここから「過労でうつ病
になった」という結論に進むのは、微妙な一歩
である。医学的因果関係が成り立つかどうかは
留保すべきである。むしろ厳密には成り立たな
いかもしれない。そこで含みをもたせて「身体
をこわした」とつないだ。蓋然性は残るものの、
発言の内容ほとりあえず妥当なものとしてよさ
そうである。
では、「働きすぎて身体をこわした」は、い
わゆる「事実確認的発言」なのだろうか。患者
の状態に関する一連の記述の束があり、それに
ついての要約なのだろうか。そうだとすると、
患者はこの事実確認をもとに、疾病であること
を認識し、休養することを妥当なものと判断し
た、ということになる。
すでにうんざりさせられている人もいるだろ
う。まともな臨床家なら、このようなことは考
えるべくもない。「働きすぎて身体をこわした」
は、「行為遂行的発言」なのである。
1 ことばは必然的に力を持つ
ここでいう「事実確認的発言(constatative
utterance)」および「行為遂行的発言(performative
utterance)」は、イギリスの言語学者オー
スチンの分類に基づくものである。前者は、
従来の陳述文に該当するものであり、対象や事
象についての一定の意味づけや判断をする発話
である。後者は、オースチンが新たに取り出し
た発言形式であり、発話することが、それ自体
で相手に対して何らかの行為を遂行するもので
ある。例えば「あなたと結婚する」、「お金を返
すことを約束します」などがその例としてあげ
られる。
オースチンの論は、言語学に大きな足跡を残
したものであるが、私見では、次の2つの点で
問題が残る。そしてそれぞれが、本論の重要な
論点と関連する。
1つは、「事実確認的発言」と「行為遂行的発
言」を厳密に分けることはできないのではない
か、ということである。とりわけ純粋な事実確
認的発言というのは、ありそうにもない。
例えばある人が「窓が開いている」といった
としよう。それは「寒いから閉めてほしい」と
いうことを意味しているかもしれないし、開け
っ放しにした相手の無作法をなじっているのか
もしれない。いずれにせよ、ただの物理的な記
述にとどまるものではない。「雨が降っている」
といった、一見事実確認的にみえる発言でも、
相手にいう以上は、すでに何らかの働きかけに
なっている。どのような発言であれ、それが発
言である以上、何がしか行為遂行的である。
いま1つは、行為遂行的発言に関するもので
ある。オースチンによると、それが成立するた
めには、いくつかの付帯条件がある。例えば、
①ある一定の慣習的(conventional)な効果を持
つ、一般に受け入れられた慣習的な手続きが存
在しなければならない。②行為遂行的発言がな
される際の相手の人物、および状況が適切でな
ければならない、などである。オースチンによ
ると、これらが満たされなければ、行為遂行的
発言は「不発」(misfire)に終わるという。
しかし発言はしばしば不適切な状況というリ
スクを背負っている。というよりも、発言はつ
ねに誤読される可能性にさらされ、適切な行為
遂行は果たされないのではないだろうか。しか
も、このこと自体が、発言そのものの、発言の
持つ力の、淵源となっているのではないだろう
か。これらはデリダがオースチンや彼を擁護し
たサールに対して、繰り返し指摘したことであ
る。
もちろん、治療者の発言は、事実に即したも
のでなければならない。事実とかけ離れたこと
を述べて効果を得た場合には、もはや医学とい
う枠組みを逸脱している。すでに詐欺に近い。
それゆえ、精神療法の治療的な効果というもの
は、医学的言説の副産物(byproduct)として位
置づけられるべきものである。
とはいえ、全く中立的な医学的見解の伝達な
どがあったら、それは味気ないものとなるだろ
う。そのようなものは、患者を治療に結びつけ
ることはできない。それ以前に、治療的でない
発言などは、臨床の場ではありえない。徹底的
に中立な発言をしても、それは必然的に治療的
な意味あいを持たされる。例えば、患者はそう
した発言を、関係を拒否するメッセージとして
受けとるかもしれない。また冷厳な医学的宣告
を受けたと感じるかもしれない。あるいは近づ
きすぎた治療者と一定の距離が得られるかもし
れない。ともかくも無関与ではありえないの
だ。
つまり、byproductといったが、それは必然
的に発生する。よきにつけあしきにつけ、医療
的言説は精神療法的な効果を免れないのであ
る。
2 ねらったことは実現しない
ここで転倒が生ずる。そもそもbyproductで
あったはずもものが、一転して主役に転ずるの
である。つまり、単に医療的言説に寄生したも
のではく、「精神療法」という独自のジャンル
を主張し始める。そしていつのまにか、自分が
byproductであったことを忘れるのである。
もっとも、次のように反論されるかもしれな
い。もともと医療に依存しない精神療法がある
ではないか、と。確かにそうである。ここまで
の論は、あくまで医療の枠組みのもとにおける
精神療法について述べたものである。
だが、精神療法とは、その本性からして
byproductなのではないだろうかという疑念が
どこかにつきまとう。つまり、ある固有の方法
と目的があらかじめ設定されており、それを直
線的に目指すものなのだろうか。そうした発想
には、どこかに誤魔化しがあるように思われる。
というより、経験はそんな単純なものではない
ことを物語ってはいないだろうか。
例えば、強迫洗浄に苦しむ患者に、認知行動
療法を行うとする。曝露療法などによって一定
の効果が上がったとする。一見して、この治療
法の効果が直線的に発揮されたように思われ
る。では、誰がやっても同じだったのだろうか。
そのようなことはあるまい。なによりまず、技
術的な習熟が要求される。だが、それだけでも
ないだろう。おそらくは曝露を行うまでに、勝
負の帰趨はある程度ついている。強迫心性を持
つ患者が思い切ってこの治療に身を委ねると
き、すでに治療は道半ばに達しているのではな
いだろうか。
認知行動療法に先立って、治療者は患者の症
状の起こり方や、それに伴う不安について細か
く聞いていく。そして一定の感情移入が可能に
なり、そのうえで、介入のポイントが見えてく
る。患者も少し自分の症状から距離がとれるよ
うになる。こうした一連の行程の中で、すでに
患者には大きな変化が起こってくる。患者個人
というより、関係性が変わってくるというべき
なのだろう。どのような治療であれ、その治療
を患者が受け入れたとき、すでに半分勝負はつ
いている。
患者を理解しようとして、一生懸命聴き、そ
して訊ねたとする。しかし結局のところ、理解、
あるいは了解というのは、どこかで壁にぶつか
る。それは病理による場合もあれば、他人の心
という壁によることもある。結局、理解すると
いう目的は達せられずに終わる。だが、患者の
状態がよくなった。なんとしてもわかろうとす
る治療者の気持ちが伝わったのである。この場
合も、効果はbyproductである。
では、関係性の改善を目標にすればよいでは
ないか、と考えることもできるかもしれない。
しかしそれはどのようにすれば達成されるのだ
ろうか。直線的に求めて得られるのだろうか。
「治療関係を大切にして」などという文言が
空々しく響くのも、同じような理屈である。こ
の関係の改善とは、その療法に真摯に取り組む
中で、その効果として、はじめて生み出される
ものである。巧んで得られるものではない。
3 真意は伝わらない
話を元の場面に戻そう。「働きすぎて身体を
こわしたのだ」という文言は、患者に受け入れ
られ、療養が開始されたとしよう。その効果と
して、治療を軌道に乗せることができたのであ
る。この程度のことなら、巧んでも行えそうな
気がする。うつ病の患者を休息に導くフレーズ
として、一般化が可能であるように思える。つ
まりはbyproductではなく、直線的に効果をね
らえることもありそうである。
ところが、治療を開始してまもなく、患者は
労災の申請をしたいといい始めた。自分は働き
すぎて身体をこわしたのだから、当然の権利だ
という。さらには働かせすぎた会社に謝罪をす
るように求めた。そして、これも当然のことで
あるかのごとく、治療者の口添えを求めた。と
いうより医学的なお墨付きを要求したのであ
る。いつもより時間をかけて面接したが、躁転
したというわけではなさそうである。
治療者は、いささか鼻白む思いにさせられる。
もちろん明らかに労務災害であれば、そうした
要求に応えることにはやぶさかではない。だが、
会社にそれはどの瑕疵があったかどうか、定か
ではない。治療者は、まずは療養に専念するよ
うに患者に勧めた。いったん回復の見込みが立
つまではペンディングするように助言した。し
かし患者は、「『働きすぎて身体をこわした』と
いったのは、他ならぬ先生、あなたではないか」
と譲らない。
いささか極端な例を想定しているが、この中
には、精神療法とは何かを考えるに際して、重
要なことが物語られている。まず、「働きすぎ
て身体をこわした」というのは、科学的で中立
的な言明ではなかったことが、改めて確認され
る。いかなる言語行為も、治療という文脈に依
存したものであり、その文脈のもとで効果を持
つものであることがわかるだろう。
厳密にいうなら、フィクションだったのであ
る。ただ、患者を回復させるという効果を持つ
がゆえに、過労と発病の因果関係は、科学的な
検証なしでも、正当化されてしかるべきものだ
ったのである。
治療者が鼻白んだのは、治療的言明を別の文
脈に移し変えられたからに他ならない。患者は
賠償や謝罪という、司法的な文脈に転用した。
すなわち医療をabuseしたのである。当たり前
のことだが、治療には枠というものがある。そ
れが露骨に破壊されたのである。例えば境界型
パーソナリティ障害のように、この枠を侵犯す
ることが病理の1つの特徴とする症例が、いか
にやっかいなものであるかが、改めてわかる。
というより、この枠の侵犯された感触から、し
ばしばわれわれはこの障害の診断をしている。
さらに重要なことは、われわれは精神療法の
効果をコントロールできないということであ
る。しかもそれは原理的に不可能である。たと
え治療者が、自分の発言の文脈をすべて把握し、
その効果を予測することができるにしてもそう
なのである。これがまさにbyproductであるこ
とのゆえんである。
上にあげた例ほどではないにせよ、われわれ
のメッセージは、患者の中で新たな文脈に置き
換えられる。あるいは新たな意味づけをされる。
真意というものは、そのまま伝わることはない
のである。
というよりも、自分の発言が、一切の加工を
されずに患者に受け入れられたとしたら、かえ
って伝わったという手ごたえは得られないだろ
う。その典型が「知性化」である。ある解釈を
提示して、「そうですね」と、何の浸透した感
触もない応答が帰ってくるとき、われわれは、
それが拙速に過ぎたことを思い知る。あるいは
いまだ治療関係の確立していない統合失調症と
の単調なやりとり。おそらく彼らは、あらゆる
発話行為が持つperformativeな力を、あたかも
無抵抗に受け入れるがごとくして、かろうじて
やりすごしているのだろう。
相手のことばを括弧入れすること、それに自
分なりの意味を与えること、あるいは転用する
こと、このことは他者が他者であること、視点
を移動すれば、自分が他ならぬ他者とは異なる
主体であることを保障するものである。
それゆえ、本当にいいたかったこと、つまり
は真意というものは、相手に完全に伝わること
はない。自己と他者の間には、決定的な切断が
ある。これは言語行為に必然的にっきまとうこ
とである。すなわち、完全なコミュニケーシ
ンの不可能性がコミュニケーションの可能性の
条件なのである。
真意が伝わらない。これでは治療も何もあっ
たものではない。そう思われるかもしれない。
だが、ここで真意というのは、あらかじめ話す
側で決定されているものとしての、考えや意図
のことを指す。そのようなものはないといって
いるのである。あると想定するから、それは常
に裏切られ続けなければならないのである。い
ずれにしても、精神療法は「出たとこ勝負」と
いう側面を免れえない。
真意とは、後からわかるものである。語りを
差し向ける相手に聞き届けられて、初めてその
意図が明らかになる。たとえそれが誤解であっ
ても、それをとおして、意味は私に帰ってくる
のである。またたとえ、相手がその場にいなく
とも、私は誰かに語りを差し向けるのであり、
そうしてはじめて自分がいいたいことを知るの
である。
後からやってくるということ、このことは何
も最初から意図はなかったのだということでは
ない。また、何か目標を立てたり、計画したり
することが無意味だといっているのではない。
おそらくは真面目な意図がなければ、よい
byproductも得られぬだろう。
では、冒頭の患者は、なぜ医師の「働きすぎ
て身体をこわしたのだ」をabuseしたのだろう
か。治療者はあらかじめこの発言がどのような
効果を生むのか、コントロールすることはでき
ない。相手によって解釈しなおされるのを免れ
ない。常に転用可能である。それはすでに確認
したことである。とはいえ、「いくらなんでも
限度というものがあろう」といいたくなるはど
の転用、乱用である。
実は、診察のおり、この治療者の外来は立て
込んでいた。少し急ぐ必要があった。患者が休
養することをなかなか首肯しないことに、いく
らかいらだっていた。誠実な働きかけにもなか
なか応じようとしないので、病状からくる頑固
さだろうと思いつつも、いささか腹も立ってき
た。広い意味で逆転移というものである。これ
だけでは説明できないだろうが、この逆転移は、
患者のその後の反応にあずかったようである。
4 フィクションとしての医療
視点、患者の側に移そう。発話に関する事
情は、それによって変わることはないだろう。
治療者も患者も同型としていけない理由は見当
たらない。ただ、そこに病理がどのように絡ん
でくるか、そこにそれぞれの疾病のあり方が反
映されている。
うつ病の患者は、自分の中に、いいようのな
いmorbidなかたまりを抱いてやってくる。「つ
らい」といえばっらいのだが、それで意を尽く
しているとは思えない。「さっぱりしない」、
「重苦しい」、「気分がすぐれない」。確かにそう
なのだが、どこか核心に届かない。この患者も
沈うつな暈のかかったまま、家族に促されて、
ようやく受診に至った。
もう一度、発話のダイナミズムを確認してお
こう。われわれはあらかじめ自分の考えや意図
を理解しているのではなく、他者をとおして、
その示差から、つまりは誤読されることから、
それらを受け取るのである。それは病状につい
ても同じである。そして、さらにそこに疾病特
有の事情が加わる。この場合はうつ病の病理で
ある。
患者は、他者から絶望的に隔たれている。こ
びりついた頭、けだるい身体、とどこおった意
志。それだけではない。世界が反応しないので
ある。かろうじて絞り出したことばに、社会は
応答しない。取り残された患者の中には、残響
として、「自分は無価値だ」というシニフィエ
がとぐろを巻くことになる。
同じことは、患者を取り巻く人たちにもいえ
る。彼らがいかに働きかけても、その思いは患
者に届いていかない。「うん」、「そう」、「わか
った」などといわれても、自分たちのかけたこ
とばが、浸透した手ごたえはない。患者は「情
けない」、「自分なんて、いない方がましだろう」
などと漏らす。「そんなことはないよ」と慰め
つつも、きっと聞いてはいないだろうなと、徒
労感にみまわれる。家族や友人だけではない。
心理療法家がかかわっても、事情はそれほど変
わらない。通常の精神療法は、うつ病に歯が立
だない。行き詰った患者、およびそれを取り巻
く人たち、それに応答するものとして、医療が
登場するのである。
暗礁に乗り上げた状況、それを医療はすべて
「病気」として括り出す。そして回復のための
ストーリーを与えるのである。ここでは、「働
きすぎて身体をこわした」が、この絶望的に隔
てられた病理を、丸ごとすくいとるように機能
するはずだったのである。そして、たいていの
場合、機能する。
医療という枠組みは、それほど強力である。
科学的な言説や、社会的な制度という確かなも
のによって、それは周到に組織されている。た
だ、いかに堅固にみえようとも、ある種の<フ
ィクション>である。だからこそ、患者は
abuseすることができたのである。
「医療がフィクションである」ということは、
にわかには受け入れがたいことかもしれない。
しかし、患者が示したのは、まさにそのことで
はなかっただろうか。疾病が、純粋に客観的で
中立的なものとすれば、それはいかなる文脈の
もとに置かれようとも、その内実は変わらない
はずである。だが、医師が伝えようとしたもの
と、患者が受け止めたものは、その様相を全く
異にしている。つまりは文脈依存性があるの
だ。
いや、患者は単に転用をしたのであり、さら
にいうなら、悪用したのだ。そう反論されるか
もしれない。疾病の真実は医療の側にあるのだ
と。こうした考え方は、さらに科学的思考によ
って補強される。つまり何らかの物質的、ある
いは生理的な実体が想定されることになる。だ
が、現実にはまだ確たるものは存在しない。た
とえ存在したにせよ、自分は過労の犠牲者にな
ったという患者のストーリーは依然として効力
を持つ。
最も問題なのは、「医療の側に真実がある」
という考え方である。少なくとも臨床の観点に
立つ限り、これは決定的に誤っている。もちろ
ん患者が何をいってもそれは正しいのだといい
たいわけではない。そうではなく、真実は、患
者をして医療に運ばせたもの、すなわち、「苦
痛」にある。しかもこの場合、苦痛の実体は、
いわくいいがたいものである。
この苦痛に形を与え、回復のためのストーリ
ーを提供するものが、まさに医療である。苦痛
にこそ医学における真実の場があり、それを癒
すものとして、そのレゾンデートルがある。た
だ、不幸にして、この症例の場合、苦痛はとら
えそこなわれた。患者は医療の提供するストー
リーを転用し、社会に異議申し立てするという
ことで、苦痛の解決をはかった。不幸なことだ
が、おそらくあまりよい転帰にはならないだろ
う。
5 現実を構成するフィクション
医療がフィクションであるということは、そ
れでもなお納得がいかない、といわれるかもし
れない。ただ、ここでフィクションというのは、
現実に対するところの虚構ではないことに注意
していただきたい。そうではなく、現実を構成
するフィクションなのである。
このフィクションは、全く恣意的であってよ
いというものではない。例えば「働きすぎて身
体をこわしたのだ」という医師のことばを再び
取り上げてみよう。これはフィクションである。
たとえ、疫学統計的研究によって、何ほどかの
有意差が確認され、実証されたとされても、事
情は大して変わらないだろう。かといって、そ
の代わりに何をもってきてもよい、というわけ
ではない。このフィクションは、苦痛という
「核」を持っている。少なくともそれをめがけ
るものでなければならない。そしてさらに、苦
痛を軽減し、回復を図るためのもの、というテ
ロス(=目的)がある。こうしたことによって、
初めてこのフィクションは妥当なものとされる
のである。決して何でもよいというわけではな
い。
さらに大切なことは、最初に苦痛があり、し
かるのちにそこにフィクションがやってくる、
ということにはならないということである。実
際の受療行動を考えても、そのように合理的な
対処をする患者は、ほとんどいないだろう。ど
うにもならなくなって、やむにやまれず、不承
不承……、さまざまなパターンがあるだろうが、
自分の苦痛を、それとして、冷静に提示する患
者はほとんどいない。
苦痛は、患者を医療に運ぶ。しかしそれは、
医療の与えるフィクションによって、初めて苦
痛として形を与えられるのである。あるいは、
初めて、自分が取りつかれていたのが苦痛とい
うものであったとわかる。
一定の深さの病態水準を持つ場合、精神疾患
においては、例えば頭痛や腹痛のように、人が
いて、そこに苦痛があるという関係にはなって
いない。「患者が苦痛を持つ」というような、
持主対所有物、主体対対象の関係になっている
のではない。医療というフィクションをとおし
て、初めてそのような関係が成立しうるのであ
る。
うつ病者の場合、彼の日常の現実を構成する
はずの、ここでいうところのフィクションが機
能していない。社会、組織、あるいは役割とい
ったフィクションが、もはや彼に応答しない。
この無意味となった、空虚となったあり方その
ものが、うつ病者の苦痛の本体なのである。そ
れゆえ、日常的な「癒しの言説」が通用しない
のは、当たり前のことなのである。
医療という強いフィクションをもってして初
めて、うつ病者に対して、別の現実、つまりは
「病」という現実が提供される。そして患者は
回復のためのストーリーの中に入る。
6 フィクションと病理
現実を構成するものとしてのフィクションが
どうなっているのか、ということは、さまざま
な病態で異なる。そしてそのあり方は、各疾患
に対して、医療的対応がどのようなものである
べきかを決定する指針となる。
うつ病の場合はすでに取り上げたところであ
る。では、例えば、統合失調症ではどうなって
いるのだろうか。
彼らの場合にも、フィクションは機能してい
ない。ただ、うつ病の場合とは様相を異にする。
ある意味で、統合失調症者は、フィクションの
フィクションたることに気づいている。という
より、「気づいてしまっている」、あるいは「気
づかされている」、といった方が妥当かもしれ
ない。
彼らにあっては、フィクションの機能そのも
のが作動しない。つまりは現実を生み出さない。
それゆえ彼らはフィクションの欺脆性に気づき
ながらも、それを現実化するもの、すなわち語
ることばを持たない。
それゆえ、彼らは意味を剥奪されている。意
味は、圧倒的に社会の側にある。フィクション
を共有する世間は、あたかも何でもお見通しの
ようである。彼らの秘密を握っているようにも
みえる。
そして、うつ病の場合と決定的に異なるのは、
別のフィクションによる補填がきかないという
ことである。とりわけ、医療というフィクショ
ンが、彼らには自分たちを救い出すものとして
作動しない。このもう1つのフィクションは、
新たな現実を構成するのではなく、侵襲するも
のとして立ち現れる。彼らを龍絡し、剥奪する。
そして「残余」が残らないのである。彼らがお
しなべて医療に対して拒否的であるのは、この
ことによる。
「残余」とは何か。それはまさに患者の主体
そのものである。主体を構成する「核」のよう
なものといってもいいだろう。それが、日常と
いうフィクションの中で析出しない。さらにま
た、医療という特別な制度の中でもそうなので
ある。むしろより侵襲的でさえある。とはいえ、
もし、彼らが自分自身で自分を与えるフィクシ
ョンをつむぎだそうとするなら、それはまさに
妄想となる。なぜなら、「意味」とは、他者の
中で、他者から与えられるものであるからであ
る。そして「存在」もまたしかりなのである。
だが、現状では、医療より他に、この病態に
対応できるものはない。というより、あらゆる
制度は、それが現実を構成するフィクションで
あるかぎり、侵襲的なのである。それゆえこの
疾病の前では、医療は、おのれの害なるを持っ
て、それを回復へと導くものとするという困難
を、自らに課すことになるのである。統合失調
症の精神療法がまず目指すものは、彼らにその
存在を与え返すことである。彼らに対して誠実
たろうとするなら、医療は、少なくともいくば
くかは、自己否定的たるを免れえない。
もう一度、発話の状況を振り返ってみよう。
われわれは、自分のいいたいことを、あらかじ
めわかっているわけではない。他者に語りかけ、
他者から与え返されるということ、後からわか
るという契機が、必然的に入っている。この根
本的な「与えられる」回路が、統合失調症では
切断される。それも、コミュニケーションを可
能にする切断ではなく、切断そのものである。
それゆえ、彼らの発話は、いったん発せられ
るや、行方不明になる。漏洩し、剥奪されるの
である。かと思えば、他者から、いきなり暴力
的に意味を押しつけられる。それは自分に張り
つき、自分のものととらえなおす余地は残され
ていない。すでにそう決まっているのである。
行為もまた、その意味は社会から与えられる。
しかし彼らの行為は社会に届いていかない。か
と思えば、逐一モニターされ、批判に曝される
のである。
治療者は、こうした状況下で、患者の前に立
ち現れる。それゆえ、「決して簒奪しない」と
いう意志を持って彼らと向きあわなければなら
ないのである。
7 Byproductとしての精神療法
では、改めて、通常の場合、フィクションは
どうなっているのだろうか。それはわれわれの
現実を構成するものである。このことはすでに
再三確認した。それに加えて、次のことが重要
である。われわれはフィクションの存在を忘れ
ている。それと気づかないのである。もちろん、
ふと気づくこともあるし、限界はあるにせよ、
気づこうとすればできなくもない。だが、忘れ
ているのが本来のあり方であり、それゆえにこ
そ、現実構成的なのである。
われわれは自分の現実を構成するものが何た
るかを知らない。知らないうちに、しかし、行
為の水準では、やってしまっている。できてい
るのである。フィクションはすでに行われ、実
現されている。それゆえ、われわれのフィクシ
ョンについての知は、常に遅れをとり、そして
近似値でしかない。
フィクションに関するこうした事情は、診療
の現場でもそれほど変わらない。この論で一貫
して俎上にのぼっている治療者も、「働きすぎ
て身体をこわしたのだ」といったとき、これは
フィクションであるという意識はなかったはず
である。いささか腹立たしくなっていたとはい
え、そう信じていったのである。そこへ、通常
うつ病者ではあまりないことなのだが、患者は
自分が病気になったのは会社のせいであるとい
い、医者のお墨つきを要求したのである。この
パターンは、むしろパーソナリティ障害を思わ
せるところがある。この類型は、フィクション
のフィクションたることを知り、かつ、統合失
調症のように疎外されているのではなく、そこ
に住まうのである。
医療に従事するものは、それが制度であるこ
とを、振り返ってみればわかるのだが、実践に
おいては忘れている。そして患者に真剣に向き
あおうとする。そこへ、こうした一撃を喰らう
と、ものすごく不快な気持ちにさせられる。
医療は、特権的な場を構成している。世の中
というところから遮蔽した時空を作り、舞台と
している。そういうところだからこそ、私たち
は病者と真剣に向きあうことができるのであ
る。それをabuseされることは、不愉決極まり
ない出来事になる。
逆にいえば、フィクションというみえない枠
組みによって、われわれの治療は支えられてい
る。たとえ統合失調症が、フィクションの暴力
に曝されていても、世の中という最も強力な力
から彼らを遮蔽するのは、医療というフィクシ
ョンである。というより、そうでなくてはなら
ない。
精神医学が自らを科学であると自認するなら
ば、それはフィクションとしての知であり、近
似値にすぎない。フィクションであることには
無自覚である。精神療法を広義にとるなら、そ
れは治療の効果から、「科学的」と考えられる
寄与分-そのようなものが分離できるとしてー
を差し引いた「余り」であり、余りのすべてで
ある。そこには正負双方の効果が含まれる。別
様にいえば、精神医学がおのれを科学と思い込
んでいる、その想定が裏切られる部分に相当す
る。その意味において、まさにbyproductなの
である。
いい換えれば、医学が知らないうちにやって
いることである。それをあえて対自化すると、
精神療法になる。つまりはフィクションがフィ
クションであることについての知であり、あえ
ていえば、ある種の「自乗化された知」である。
そうであるがゆえに、現実をく構成するものと
してのフィクション>に問題をかかえた精神疾
患に対応することができるのである。
精神療法は、フィクションとしての医学に宿
り、それが切り開いた時空を舞台にして行われ
る。そして自らもまた、新たなフィクションで
あり、そのつど構成的なものとして展開される。
フィクションである以上、精神療法もまた、そ
の実践においては、自分がフィクションである
ことを忘れる。これは必然である。
つまり行為の局面で、知は信に転ずる。いっ
たんかかわり始めたら、一生懸命、真摯に営む
よりない。その効果は、やはりbyproductとし
て生ずるのである。
知としての精神療法は、知である限り近似値
でしかなく、後知恵たらざるを得ない。ただ、
行為への拠点として、必要不可欠なものであ
る。
無知な行為と半歩遅れた知、この間を結ぶも
のがあるとすれば、それは「信」である。結局
のところ、医学における精神療法はに最終的に
「信」を与えるものに帰着するのではないだろ
うか。それもbyproductとして、結果として与
えられるものである。巧んで与えらえるもので
はない。ただ、洗練された知と、真摯な行為が
背景になければならないことだけは確かだろ
う。
文献
1)AustinJL:How to do tbings with words、edited by
urmson and Marina Sbisa、0xford university Press、
1962(坂本百大訳:言語と行為.大修館、東京、
1978)
2)Derrida J:Signature evenement contexte.ln
Marges、Editions de Minuie、Paris、1972(高橋允昭
訳:署名・出来事・コンテクスト.現代思想16
巻臨時増刊号、1988)
3)Derrida J:Limited lnc、Gal116e、Paris、1990(高橋
哲哉、宮崎裕助、増田-一夫訳:有限責任会社、
法政大学出版局、東京、2003)