他人がわたしを見ている→わたしを見ているように感じる
1.世界モデルでは、他人はわたしを見るはずだ、必然的に見る、とすることがある。
2.外部世界の観察の結果として、他人はわたしを見ていると、結論することもある。
これは区別が必要。
しかし最終的には区別し難いものになる。
1.は世界モデルが壊れている。訂正が必要である。
2.は、他人はわたしを見る必要もなく、見ているはずもないのだが、それでもやはり見ている、外部観察によれば見ている、それはわたしに興味を持っているとしか考えられない、となる。この様相は強迫の病理に近くなる。
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人はいないのに眼差しだけがある場合があり、
純粋な被注察感である。
わたしは、それは一次的なものではなく、二次的なものだろうと推測している。
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シュナイダーに二節性の議論があった。
机の上に消しゴムがあるとする。それは彼女がわたしを好きだと確信する。消しゴムがそこにあることに、過剰な意味を付与する。これは、知覚は正常、意味づけが妄想的。シュナイダーは、これを妄想知覚の二節性(Zweigliedrigkeit)といった。統合失調症の一級症状のひとつ。
知覚そのものが異常なときには、統合失調症以外の病気を考えようということだったように思う。
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極端に言えば、消しゴムはなくて、彼女の好意または悪意だけが確信されてもいいのだと思う。
妄想着想とか。
見えないけれど、隣の部屋の人がわたしに悪意を向けているとか。
そういうものはおおむね悪意の確信が先にあるのであって、
偶然その対象にされてしまうことがあり、困りものだ。
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多分シュナイダー先生が正しいので、わたしが勘違いしているのだと思う。