インタビュー記事から抜粋して、読んでみましょう。
従来のうつ病とは病像を異にする、20、30代の若い世代を中心にみられるうつ病病を「職場結合性うつ病」と捉え、発病の主な要因を職場自体のメランコリー親和型化にあると指摘する。
「現代の仕事、社会の問題はどのように精神障害に影響を与えているか」(加藤敏.精神科治療学 2007; 22:121-31)
職場自体がメランコリー親和型になったという指摘なんです。効率のよい組織になったとは思いますが、メランコリー親和型になったと言えるのでしょうか?
「几帳面で義理堅い」従来型のうつ病から、「自己中心的でわがまま」な現代型うつ病へと、職場のメンタルヘルスの話題が移っている。
こうしたタイプのうつ病は、非定型うつ病、気まぐれうつ病、逃避型うつ病、未熟型うつ病、職場結合性うつ病、双極スペクトラム論などさまざまに論じられている。
ここから加藤先生の職場結合性うつ病の話。
仕事が過重となり心身の疲弊の末にうつ病を発症する。職場の仕事に結合したうつ病という意味で、「職場結合性うつ病」と名付けた。
1960年代の高度経済成長期にも日本人の働き方は大きく変わった。しかし、このときには会社は終身雇用制・年功序列の賃金体系をとり、職場は正規社員で構成され、会社が「家族」としての一体感・まとまりをもっていた。
ところが現在は、会社の家族的な共同体意識が希薄となり、職場での個々人の孤立感が増している。以前は社員旅行が定期的にあり、なにかあったら職場で「支えあう」という面があった。いまは業績主義が支配的で失敗をすれば蹴落とされる、給料が下がるというリスクを負う。
ドイツの精神病理学者Tellenbachは、うつ病に親和的な性格として几帳面で他者配慮的、良心的な性格をメランコリー親和型と名付けた。それは1961年のこと。もともとはうつ病の病前性格とされたメランコリー親和型の行動特性を、会社・職場がとりこみ、勤労者に対し、間違いを許さない厳密性と完全主義を徹底し、顧客に対する良心性と仕事課題に高いレベルを要求する。これが現在の職場である。
競争が激しくなり、過重・長時間労働が課せられ、緊張状態が続き、心身の疲弊が蓄積し、その頂点でうつ病が発症する。この点で、職場が「メランコリー親和型化」していることに、わたしは注目している。患者の病前性格についていえば、職場の「メランコリー親和型化」により、この性格類型が稀釈されるような形で明確にメランコリー親和型とはいえないケースが増えている。
ということは、メランコリー親和型の個人はむしろ適応的な性格になっていて、発症しないということなのだろうか。
いや、そうではない。心身の疲弊が蓄積して発病するというのだから、やはりメランコリー親和型の人が発病しやすいようだ。
メランコリー親和型でない人も、メランコリー親和型のように仕事をすることが求められ、その結果、メランコリー親和型の人と同じようにうつになると解釈すれば話は通る。
要するに、性格がどうであれ、疲れ果てるまで働いてしまう、または、働かされる、だからうつ病になる。
自分から働いてしまうのがメランコリー親和型で、働かされるのが、それ以外ということか。
だったら、職場や上司のせいにするだろう、当然。
産業革命下の米国で内科医Beardが提唱した神経衰弱(神経疲弊)の延長線上にある。職場結合性うつ病は、いわば「Beard型うつ病」である。1980年代以降、英米圏でも労働時間が長くなり、仕事の厳密性、迅速性が求められる中で、このBeard型うつ病が増えてきている。
Beard型うつ病は神経衰弱(神経疲弊)をいっているだけで、原因類型には言及していない。
疲れ果ててうつ病になるというのは、とくに新しい論説ではない。
グローバル化した企業競争の下で、日本と英米圏で似たようなうつ病像を呈しているのではないか。国を越えた先端的企業での職場結合性うつ病、あるいはBeard型うつ病の増加は、企業活動や競争のグローバル化とパラレルな現象ではないか。「精神障害は社会の病理の鏡」という見方があるが、Beard型うつ病は現代社会のグローバル化の下での競争原理優位な社会の歪みをあらわしているといえるかもしれない。
国を越えた先端的企業では、職場自体がメランコリー親和型なんでしょうか?
メランコリー親和型職場は、競争主義的でしょうか?
メランコリー親和型の人は、家庭人としても尊敬できるいい人のような気がします。
競争主義と家族主義はどう関係するのでしょうか。
競争主義というのは、会社内部でも競争して、会社同士でも競争する。
家族主義は、会社内では家族のように融和し、会社同士は競争する。
ということでしょうか。いや、そうでもないのだろう。そんなことが焦点ではない。
「家族的」といっても、とても競争的な家族もあるわけで、むしろ、「教育的」といったほうがいいような気がしますが。競争もあるし、教育的な厳しい場面もあるけれど、最終的には各成員の幸福に責任を持ってくれるような会社というイメージ。仕事以外の付き合いもあり、家族親戚みたいな付き合いをする集団。
競争主義というのは、会社の存在理由は、収入のためと割り切り、それ以外の関わりに関心を持たない主義。でも、毎日一緒に仕事をしていて、家族類似の感情が湧き起こらないというのも、あり得ない話ではないか。
同僚がライバルか仲間かといってもそんなに簡単な区別はできない。
以下、すこし方向が違うお話。
糖尿病、高血圧などの患者さんが治療経過中に、うつ状態を呈することが意外に多い。うつ病の患者さんが生活習慣病を合併する率が高い。生活習慣病という言葉から、個人の生活に原因があるという印象を受けるが、わたしは生活習慣病のおおもとは勤労者の仕事過重にあり、そのストレス反応のために血圧、血糖値が上がる、生活習慣病、あるいはまたうつ病を発症するのではないかと考える。生活習慣病は職場結合性うつ病と同じく、「現代社会結合症候群」とみたほうが適切だと思う。
特に仕事もしていない人にも、糖尿病、高血圧、痛風、肥満、高脂血症、多いですね。むしろ食べもののせいかと思っていました。ストレス要因が問題なのは当然で、ストレスの中心は当然仕事ですから、仕事過重が生活習慣病発症にかかわっているというのは、その通りでしょう。
教室の研究でうつ病の患者さん(入院例)の中に消化性胃潰瘍の既往症をもっているケースが約8%あることを報告している。こうした、いわゆるcommon diseaseとうつ病には、生物学的なレベルでの内的な関連もあるのではないか。
ここはもう少し解説してほしいところ。
DSM-IV以降、うつ病概念が広くなりすぎ、曖昧になっている。また、不安症状は不安性障害に、制止関連症状はうつ病性障害へと表出症状により単純に区分けされるので、不安・焦燥が前面にでる職場結合性うつ病が不安性障害と単純に診断されてしまうという危険がある。DSMのうつ病性障害の診断基準は不安・焦燥については不十分である。
そうですね。うつ病概念が広くなりすぎ、曖昧になっていると確かに思います。
うつ、不運、焦燥の関連性、独立性については、検討が必要です。
わたしはうつ病は、「仕事の領域」のうつ病と「愛の領域」のうつ病に大別するとわかりやすいと思うのですが、仕事の領域とともに、愛の領域でのうつ病も増えていることを指摘したいと思います。たとえば、親や愛する人が亡くなるときに生じる悲哀の感情が遷延してうつ病となるケースです。その際、身体の痛みを訴えるケースも多くみられます。心の「悼み」が文字どおり身体の「痛み」に転化したと考えさせられるケースによく出会います。かつては人が亡くなれば喪に服すという時間がありました。ところがいまは、喪に服す、人の死を思いやるといった時間が割愛され、「喪の仕事」が疎んじられているように思います。愛の領域のうつ病、あるいはまた、疼痛性障害の増加は、失感情症的(アレクシチミック)な布置を色濃くもつ現代社会に関連して生じているのではないかと、強く感じています。
まあ、人間の生活は、仕事とプライベートとが主な場所ですから、仕事の領域と愛の領域ということになるでしょうけれど。
愛する人が亡くなったときの、悲哀の感情を、悲哀として充分に悲しめない。悲哀は失感情症的に疼痛症状に転化して、遷延する。
でも、現代社会は、失感情症的な布置を色濃くもつのでしょうか?
むしろ、深い悲しみはあるけれど、テレビ画面のように、せわしなく転換し、にぎやかに無意味である、そんな印象。