サイトの脱構築

文書の量がある程度多くなってきたので、
整理したいと考えた。
ヘッダー部分を固定してあるように見せて、タブで選択してジャンプする。
スクロールはしないようにする。
文書内の検索ができるようにする。
「はてな」みたいに、文書内の用語にリンクを張っておいて、
気ままに飛んでいつまでもさまよえるようにする。

当然、目次のようなものを作って、整理整頓する。
何か必要が生じたら、
まず目次にあたり、見当をつける。
あるいは、索引を調べて、要領よく情報をつかむ。
目的に応じたボタンをいくつも作っておいて、ワンタッチで、
必要な項目を拾い集めて一覧させるのもよい。

昔なら、項目ごとにカードにして、KJ法なんていうもので、全体を構築していったものだ。
多分、今でも、コンピュータ上で操作するだけで、原理としては、そうしている。

でもそれは、なかなか知恵にならないし、出会いにならないのではないか。

昔の書物の世界に育った脳から見れば、
ネットの世界というものは、体系性が欠如している。システムじゃない。
いつも、「これで全部なのか?」と気にしていないといけない。
網羅する快感に欠ける。

でも、人生はそんなものなのだと、今は思うのだ。
たとえば、将来の職業を考えるとき、誰も、徹底的に網羅的に検索して、決定するわけではない。
偶然の要素が大きい。
また、たとえば、配偶者の選択。これも、誰も、システマティックに探すわけではない。
偶然の要素が大きいのだ。
出会って影響される人物を自分で選んでいるわけではない。
どんなパン屋さんの近くに住むか、
それは偶然だ。

何かを調べて、実用的な知識がほしいなら、
そのようなシステムを提供している先行者がいくつもある。

わたしは、人生と同じように、つまらないものに偶然ひっかかって、未来が変わってしまう、
そんな出会いがあったほうがいいと思う。

だから、総索引は置かない。
コンピュータで検索するには、用語の統一と表記の統一が必要である。
しかしそんなものも、いらない。
自分なりの感性で、あちこち行ってみて、自分なりに意味のあると思うものを心にとどめておく。
それがいい。
連想が連想を呼んで、思わぬものが結合し、事物の内的関連を直感する。
そんな体験が本質的に重要だ。
知らないからお勉強しましょうではなく、世界の手触りを楽しむ体験がしたい。

下調べをして完璧な予定表を組み、その通りに体験してきた旅、
皆さんも多分、経験があると思う。
それもいいけれど、しかし、それは人生に似ていない。
テレビや映画を見ているようなものだ。
映画はすでに確定された未来としてDVDに記録されている。
そのようなものでも、脳は、ドキドキしたり、感動したりしているのだから、
予定通りの旅でも、いいのだろうが。

しかし、目次も索引もない世界を、さ迷い歩いてみたくないか?
誰とも共有していない、自分だけの経験はどうか?

他人の書いたものを読むということは、
脳と脳が接続される経験だ。
そのとき、垂直にではなく、水平に、接続したいのだ。
垂直接続は、システムであり、権威であり、この世での利益であり、成長である。
水平接続は、経験であり、成熟である。

というような理屈をつけて、
全体を脱構築したままに放置しておくことに決めた。

でも本当は、
誰か几帳面な人がいたら、喜んで任せるので、整理してほしい。
そうすれば、本にもできるだろう。
ついでに挿絵も描いてほしい。